忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
30  29  79  77  76  75  74  73  72  71  68 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ レメディオス・ヴァレンシア ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年2月9日生まれ。9人兄弟で小学校は4年まで通う。1943年10月頃、市場で3人の日本兵に拉致さて強姦。その後、慰安所に入れられる。1944年11月頃、米軍の爆撃のどさくさに紛れて逃げ出す。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵に連行される。


【考察】

下記資料の「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下「私は」)を比較すると以下の通り内容の相違があります。

<連行された時の状況>
○「フィ」・・・市場で魚を売っていた時に3人の日本兵に連行
○「私は」・・・市場の前で日本の軍隊が行進しており、その道を渡ろうとして3人の日本兵に連行

→ 「私は」の証言にはありませんが、魚を売っていて道を渡ろうとしたのでしょうか。

また、日本軍の行進の規模は分かりませんが、同女が道を渡る為に、わざわざ日本軍に通行許可を取っているところを見るとそれなりの規模であったと思われます。
しかし、行進途中に3人の兵士が女性を拉致して強姦するほど、日本軍の規律が乱れていたとは思えないのですが。


<強姦された場所>
○「フィ」・・・近くの空き家
○「私は」・・・市場の向こう側

→ 市場の向こう側の空き家ということでしょうか。


<強姦された後>
○「フィ」・・・マニラのダコタ地区の大きな二階建ての家に連れて行かれて慰安婦を強いられる
○「私は」・・・ガイソンという基地に運ばれ、8ヶ月監禁されて強姦される。その後、ダコタ地区の家に移される。

→ 「私は」では、強姦と「ダコタの家」の間に、「ガイソン基地」の情報が追加されています。
この基地では8ヶ月間監禁されており、同女が拉致されて解放されるまでの約1年間の3分の2を過ごしたことになります。抜け落ちるわけがない情報です。さらに、「フィ」は、裁判の為に弁護士が聞き取り調査を行ったものです。証言集会などでの証言の場合なら、省略した可能性も考えられなくもないですが、その可能性は限りなく低いと言えるでしょう。

また、ダコタの家は、日本人女性が管理し、監視も日本の民間人男性と、普通の民間経営の慰安所という印象を受けます。「ガイソン基地」は、日本軍の関与度を増すために後から追加した創作でしょう。


【信憑性】

連行時の状況は疑わしい内容であり、また、後から日本軍の基地での監禁話を追加しています。信憑性はないでしょう。

民間経営の慰安所で働いていただけだと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二〇年二月九日、ネグロス島の西ネグロス州バコロド市に生まれました。父母と九人きょうだいの十一人家族で、父は大工をしていました。
 一九三九年に異母きょうだいといっしょにサーカスのグループについてマニラに出てきて、そのまま市内に住んでいました。初めて日本兵を見たのは、義理の弟がガチョウを盗んだことで日本軍の駐屯所(現在のニノイ・アキノ国際空港のあたり)に連れていかれたときのことです。
 一九四三年の十月ごろ、マニラのパコ市の市場で魚を売っていたとき、三人の日本軍兵士に手を引っぱられて抱きかかえられるようなかっこうで、近くの空き家に連行されました。そこは、ニッパヤシで造ったような建物で、十二平方メートルくらいの広さの家でした。一人の兵士が何か言った後、他の兵士は外に出ていきました。そこで、一人の兵士に強かんされました。そのとき、市場で働いていて別の兵士グループに連行された女性もいました。
 その後、うしろに堅い座席のあるトラックで、マニラ市内のダコタ地区にある大きな家に連れていかれました。その家は二階建てで、一階は大きな応接間で三十平方メートルくらいあり、二階は、ベッドを一つおけばあまり余裕もないくらいの部屋が四つありました。そこには、テルミという名前の日本人女性がおり、四人の若いフィリピン女性もいました。テルミは、二十八歳くらいで、私より少し背が高く一五五センチメートルくらいで、その家の一階に住み、食事の世話や医者を連れてくるなど、その家を管理していました。また、日中は、民間の日本人男性が二人ほどいて、私たちを監視していました。家には鍵がかかっていましたが、部屋にはかかっていませんでした。その家があった場所は、現在マニラ動物園構内の入り口付近です。そこでは、毎日のように、一日六人から多いときは十五人くらい、兵士の性行為の相手をさせられました。食事のときだけ下の部屋に行き、あとは、大体二階にいました。他の四人のフィリピン女性も同様でした。性行為に対してお金や物をもらったことはありませんが、医師による性病検査が毎週土曜日にありました。兵士たちはほとんどコンドームをつけていなかったのです。あるとき、兵士が外に連れだそうとしたので抵抗したところ、銃剣で右足のすねの部分を刺されました。今でもそのあとが残っています。
 一九四四年十一月ごろ、私たちは解放されました。米軍がマニラに進駐する前に爆撃があり、皆いなくなったのです。テルミは、私に対し、自分をかくすために山に連れていってくれるかと言っていましたが、結局どこにいったかわからなくなりました。それで、監禁される前に住んでいた家に戻りましたが、家主がいただけで、異母きょうだいなどはいませんでした。(P.64~65)

 また、戦後聞いた話ですが、生地のバコロド市にいた妹は妊娠していたのに、日本兵は彼女の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺して引っ張り出し上にかかげたあと、また戻したということです。(P.65~66)
 
1997.8 アジアの声 第11集
私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 最初に、自己紹介させていただきます。レメディオス・バレンシアと申します。生まれはフィリピンのネグロス島にあるバコロド市、一九二〇年二月九日生まれです。今日の証言は私にとって、とても苦しい体験をお話するので、あらかじめ皆さんの理解をお願いしたいのです。
 私がマニラに来たのは、一九三九年です。四一年に戦争が始まりました。そして日本軍によるマニラの爆撃が始まりました。一九四二年の一月には日本の軍隊がマニラに入って来ました。一九四三年のある日、私は市場にいました。市場の前にある通りで日本の軍隊が行進していました。私は、用を足すのに通りの向こうまで行かなければならなかったので、日本軍に通行許可をもらい、道を渡り始めました
 けれども途中で、いきなり三人の兵士に市場の向こう側に連行され、私は強姦されました。そのあと私は、そのままトラックに乗せられ、ガイソンという兵士たちの基地に運ばれました。そこは、現在のマニラ国際空港の辺りです。その基地に私は八ヶ月監禁されました。強姦されるだけでなく、昼間は兵士たちの身の周りの世話をさせられ、おかゆや食事を作ったりしました。兵士たちの服も洗わなければなりませんでした。
 それから私は、マニラのダコタという地域にある大きい二階建の建物に連行されました。二階には四つの小さな部屋があり、テルミという日本人女性が管理していました。すでに、四人のフィリピン人女性がとらわれていて、「慰安婦」をさせられていました。彼女たちの面倒をみていたのはテルミさんでした。私たちは階上に、テルミさんは階下にいて、私たちは食事をとる時だけ下に降り、それ以外はいつも二階にいなければなりませんでした。家には鍵がかかっていて、一日に五、六人から十五人くらいの兵士が部屋に来て、性行為をされられました。
 一九四四年の終わり頃、アメリカの爆撃が始まりました。その頃には私とテルミさんはとても親しくなっていましたので、もし私が逃げることが出来たら、いっしょにどこか山の方に逃げようという話をしたこともあります。テルミさんは、ほんとうに私と友達になりたかったのか、それともただ自分の身の安全のために爆撃を恐れていたのか、いま思い出してもわかりません。爆撃された時は、みんなパニック状態に陥りました。ダコタは海に近いため、最初に爆撃された場所のひとつでした。テルミさんは爆撃で死んでしまったのか、今も生きてどこかにいるのか、私には分かりません。爆撃の時の大混乱でみんなバラバラになったので、私は隙をみて逃げ出すことが出来たのです。
 私は住んでいた家に帰り着くことが出来ました。しかし、家はすでに焼け落ちていました。どこに住めばいいか途方に暮れ、友達の家を転々としました。洗濯をして、お金や食べ物をもらい、その日その日の生活を支える状態が続きました。(P.94~96)

 私ひとりのことではなく、当時妊娠七ヵ月だった私の妹は、日本兵に軍刀でお腹を切り裂かれました。日本兵は胎児を銃剣で突き刺して頭の上まであげ、その子を再び妹のお腹の中に押し込んだのです。(P.97)


PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
Mail
URL
Comment
Pass Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
忍者ブログ | [PR]