元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 匿名 ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
6年制の小学校に通った後、看護婦として働く。1943年17歳の時、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、チモールで慰安婦を強いられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本の民間人に騙された後、軍用船でチモールに向かう。
【考察】
同女の証言の疑問点は以下の通りです。
<東南アジアで働く看護婦に応募した理由が意味不明>
・・・看護婦をしていた同女は、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、応募しますが、その理由を「その病院で働いていても将来があるわけではなかったので」と語っています。
なぜ、台湾の病院で働くことには将来がなく、また、東南アジアで働くと将来があると考えたのでしょうか。
<司令官が同女たちを強姦>
・・・同女たち(10人以上)は、処女かどうか調べられた後、「太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました」とあります。その司令官は10人以上を一度に強姦したことになります。いくらなんでも無理でしょう。
<戦後に報酬として日本の軍票を受け取る>
・・・終戦後、同女は台湾行きの船を待つ間、陸軍の手配により配給所で働いています。その時、「そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました」と証言しています。終戦後に日本の軍票を受け取り、しかも、銀行が既に無価値となっている日本の軍票を預金として受け入れるなどありえないでしょう。
また、同女が言う「陸軍」はどこの「陸軍」なのでしょうか。日本の陸軍が終戦後に、配給所の仕事を斡旋したとも思えませんし、アメリカの陸軍でしょうか?しかし、配給所の給料は日本の軍票で支払われたことになっています。奇妙な証言です。
「慰安所で受け取った金」をごまかす為に、「終戦後に働いてもらった金」であると嘘をついているとしか思えません。
さらに、何故、ここで「ドル」が出てくるのか訳が分かりません。日本の軍票なら「円」しかありえないでしょう。米軍の配給所で働いたので「ドル」だったと言っているのでしょうか?
仮に、この「ドル」が「台湾ドル」(注1)のことだとすると、現在の換算相場では、1台湾ドル=3.6円なので1万ドル=3.6万円。また、「米ドル」だとすると、同じく約120万円。
あくまで、現在の換算相場で計算したものなので実際の価値は不明ですが、陸軍参謀の年棒が6000円の時代に5ヶ月間(注2)で、配給所でかなりの金額を稼いだようです。ありえないでしょう。
(注1)「台湾ドル」は、通貨の換算相場上の呼称。実際の台湾の紙幣は「圓」となっているようです。
(注2)同女は終戦後に配給所で働き始めて、1945年中に台湾に帰ったと証言しているので、配給所で働いていた期間は最大に見積もって1945年8月~12月で5ヶ月。
<退職手当300ドルの軍票>
・・・300台湾ドルは現在の相場で換算すれば1080円(米ドルなら3.6万円)。この退職手当を5ヶ月働いた配給所でもらえたとは思えませんし、慰安所から出た退職手当でしょう。退職手当が出るとは、それなりに良心的な慰安所だったようです。
【信憑性】
内容が希薄な上、短い中で疑問点があり、また、終戦後に報酬として日本の軍票を受け取ったと語るなど、あからさまな矛盾を披露しています。
信憑性はないでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私は一人っ子でした。両親にとても大事に育てられました。六年制の小学校にも行かせてもらいました。卒業後は、看護婦として四年間病院で働きました。一七歳のとき(一九四三年)、ある日本人(一般人)が東南アジアで働く看護婦を募集しているということを、友人から聞きました。その病院で働いていても将来があるわけではなかったので、私はそれに応募して女性たちの仲間に加わりました。その時、まだ本当の事を知らない私は大変喜んでいました。
そのグループには一〇人以上の娘が入っていました。皆、看護婦になると信じていました。軍用船のアサママル(浅間丸)に乗って一ヵ月かかりチモールに着きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにありました。私たちは人も住まない山の中に連れて行かれ、ココナッツの葉でできた家に入れられました。最初は、家には何も掲示がかかっていなかったのですが、すぐ後に「慰安所」と書かれた板が張られました。
最初の週に、娘たちが処女かどうか調べるために軍医が来ました。私たち全員をです。その後、とても太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました。そして、毎日午後一時から五時まで、七人から最高一〇人までの「客」に「つく」よう言われました。どの部隊が何人慰安所に行ってよいか、軍が順番を決めていました。兵士たちには出かける前に番号つきの切符が配られました。トラックに乗って慰安所に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。夕方になれば私たちは、いつも皆で泣きながら夕食を食べ、涙が手の中の食べ物にこぼれ落ちたものです。夕食後、今度は上官たちが来て一夜を過ごして帰りました。
道の向こうには朝鮮人女性の慰安所があり、一〇人から二〇人の女性たちがいました。彼女たちは陸軍に、私たちは海軍に属していました。戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩空襲がありました。三人の娘が死にました。私たちの生命は軍の手の中にありました。私たちは動物のように見られていました。殺そうと虐待しようと彼らの意のままです。人間らしい扱いはまったくありませんでした。
一九四五年に戦争が終わって、私たちはスラバヤに送られ、そこで台湾行きの船を待つことになりました。陸軍が私たちに「配給所」で働くよう手配をしてくれました。
そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました。一九四五年、私は台湾に送り返されました。(P.104~105)
受け取ったのは、退職手当の三〇〇ドルの軍票だけでした。戦争が終わったら、私の銀行貯金はわずかな価値に減ってしまいました。強姦と、無茶苦茶にされた青春と、不幸な一生の代償に得たお金が、突然なくなってしまうことに私は耐えられないので、お金は引き出していません。その後、私は貯金通帳をなくしましたが、一緒にチモールへ行った友達はまだそれを持っています。(P.106)1993.7 写真記録 破られた沈黙 ―アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 小学校卒業後、看護婦として4年間病院で働きました。17歳の時、友人から「ある日本の民間人が東南アジアで働く看護婦を募集している」という話を聞きました。本当のことを知らない私は、それに応募して大変喜んでいました。
看護婦をするものと信じていた10人の女性が、軍用船の浅間丸で1ヵ月かかってチモール島に行きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにあったのです。ココナツの葉でできた家に入れられました。ここには後から「慰安所」と書かれた板が張られました。
最初の週の内に、私たちが処女かどうかを調べるために軍医が来ました。次に、とても太った司令官が自分の部屋に私を連れて行ったのです。そして「寝ろ」と言ってから私を強姦したのです。
兵士たちには「慰安所」に来る前に、番号付きの切符が配られていました。トラックに乗って「慰安所」に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。
昼間は兵隊、夜は大尉とか中尉たちが来ました。道の向こうには朝鮮人女性の「慰安所」があり、10~20人の女性がいました。私たちは海軍でしたが、彼女たちは陸軍に属していました。
戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩のように空襲がありました。そのため朝鮮人の女性たちが帰国するために乗った船が、爆弾で沈没したのです。私たちも帰国したかったのですが、このことであきらめました。特攻隊の兵隊は戻って来ないし、とても悲しい時期でした。
私たちはいつも皆で泣きながら夕食を食べましたが、涙で食べ物にこぼれ落ちました。
戦争が終わって私たちはスラバヤに移され、そこで台湾への船を待ちました。その間、私たちが「配給所」で働くように陸軍が手配しました。
この残忍な犯罪に対して日本政府に抗議します。人間としての尊厳を私たちに戻してください。謝罪してください。そして犯した罪に対し、私たちに補償をしてください。(P.129~130)
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