忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
29  79  77  76  75  74  73  72  71  68  67 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ パシータ・サンティリアン ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年1月7日生まれ。父は農夫で、4年生まで学校に通う。1943年10月、15人の日本兵に見つかり、尋問を受けた後、母、姉らと共に強かんされ、その時、一緒にいた11人のフィリピン人は、同女と親戚の一人を除いて殺される。同女と叔父は日本兵に連行されるが、約26時間後解放される。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられていないが、日本兵に強かんされる。


【考察】

訳の分からない内容です。
同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<なぜ、同女は殺されずに連行されたのか>
一緒に捕まった11人のフィリピン人の内、同女と親戚(男性)の二人だけが殺されません。労働力として使う気であったのなら男性をもっと生かしておいた方がよいですし、慰安婦として使う気であったのなら、女性をもっと生かしておいた方がよいでしょう。


<21時間後には解放。その間のエピソードは日本兵のフィリピン人虐殺のみ>
この二人は日本兵に連れられ移動することになりますが、約21時間後(注)には解放されています。訳が分かりません。

日本兵は移動途中で一度だけ同女ら二人を人質として使用しており、山のなかにいるフィリピン人に「山から出てこなければ私たちを殺す」と言って投降を促し、フィリピン人10人を捕まえています。最初から、人質として使用するつもりだったのでしょうか。
しかし、見ず知らずの人間を人質にしてどのくらい効果があるのか、また、そもそも、無関係の人間を人質として利用しようとする発想が出てくるものか非常に疑問です。

また、移動途中であるエピソードは、日本兵がフィリピン人を捕らえては惨殺していたというものだけです。
 ・6人の農夫を斬首
 ・5人のフィリピン人を斬首
最初に殺された9人も入れると、短期間の内に20人が日本兵に殺されたことになります。まるで、日本兵の蛮行を見せるために連行したかのような印象を受けます。

(注)解放された地から同女が住んでいた地まで「徒歩で五時間以上」とあり、また、戻ってから「二十六時間以上何も食べていなかった」とあるので、連行されていた時間は26-5で最長21時間になります。


<連行後、なぜ、同女は殺されずに解放されたのか>
最終的に、捕まえられたフィリピン人の内、同女達を含めた約八人が解放されていますが、殺すか殺さないかの選択基準はいったいどこにあったのでしょうか。

最初に捕まった11人は、洞窟で一緒に隠れていた人達です。もし、日本兵が「この洞窟にゲリラが隠れている」と認識していたのなら、その時、捕まった同女と親戚の男性が殺されないはずがありません。(他の9人は捕まえられた後、すぐに殺された)
しかも、この日本兵らは、同女の母、姉を含む6人の女性を強姦後、殺害したり、「二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺」したりするほどの残忍さです。殺されないわけがないでしょう。


【信憑性】

全体的に理解に苦しむ内容。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二八年一月七日、父ウェナペント・サンティリアン、母フローラ・サンティリアンの末子としてパナイ島北西部のアンティケ州パンダンで生まれました。きょうだいは十四人でしたが、幼くして死んだ者が多く、私が生まれたときは女性が四人、男性が三人の七人でした。父は農夫でした。四年生まで学校に通いました。
 第二次世界大戦がはじまった当時、父はマカバに住み、私は母と兄のプロコピヨ、姉のアディライダの四人でパナンカバンの畑にニッパヤシで建てた小屋に住み、穀物を作っていました。
 一九四三年十月に入ると、日本軍が来るとの情報が入り、私たちはパナンカバンの山のほうにある洞窟にかくれました。この洞窟には、私たち家族を含め十一人のフィリピン人がかくれていましたが、十月三日午前九時ごろ、十五人くらいの日本兵にみつかり尋問を受けました。日本軍には、フィリピン人のガイドや荷物を運ぶ人が同行していて、フィリピン人の通訳を介して尋問を受けました。日本兵は母に対して、「なぜ山のなかにかくれているのか?」と聞きました。母は、「日本兵が怖いのでかくれている」と答えました。日本兵は、さらに、「誰がかくれるように言ったのか?」「ゲリラはどういう武器を持っているか?」などの質問をしました。母は、「ゲリラは遠く離れたところにいる。どんな武器を持っているか知らない」と答えました。
 すると、日本兵は、私たちの手をアバカという繊維で作った親指くらいの太さのロープで後手にしばり、母、姉、私たち七人の女性をつぎつぎと強かんしました。日本兵による強かんは一時間くらい続き、私は五人の日本兵によってつぎつぎに強かんされました。
 日本兵は、強かんの後、フィリピン人男性を殴り、さらに日本刀で母の右目をつぶしたうえ、母や姉たちの首もつぎつぎに切り落としました。日本兵は、まるで木を切るようにつぎつぎにフィリピン人の首を切り落としました。母の首は、三フィート(約九十セントメートル)くらい飛んでいきました。さらに、その場には二歳と三歳くらいの子どもが二人がいました。日本兵は、二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺しました十一人いたフィリピン人のうち、このとき殺されなかったのは、私と、二人の幼い子どもの父親であるコノス・サラカンラオという人の二人だけでした。この人は私の親戚で、前から知っている人でした。コノスさんも日本兵にこん棒で殴られ、身体中アザができました。私もロープで後手にしばられ、つぎつぎと五人の兵士から強かんされたので、身体中が痛みました。
 日本兵は、母や姉の死体をパナンカバンの山のなかにそのまま放置し、生き残った私たち二人を連れて移動しました。私たちは、ブラボートの方向に徒歩で移動させられ、途中川を渡りました。しかし夜になり、日本兵はあるフィリピン人の家に泊まりました。私は外の柱にしばりつけられました。
 そのころ、カブルアンという村の二十歳くらいから四十歳くらいのフィリピン人の農夫も日本兵に捕まりました。十月四日の早朝、まだ外が暗いころ、カブルアンの農夫は日本軍から尋問を受けました。日本兵はカブルアンの農夫にゲリラかどうか聞いていましたが、彼らは「自分たちはゲリラではない。殺さないでくれ。妻は子どもを生んだばかりだ」などと答えていました。しかし、日本兵は、尋問の後、一晩泊まった家の前で六人のカブルアンの農夫の首を切り落として殺しました。彼らを殺した日本兵は、母や姉をパナンカバン山で殺した十五人くらいの日本兵と同じでした。
 十月四日の朝、私たちはブラボードのハイウェー沿いのところまで連れて来られましたが、途中、日本兵は、山のなかにいるフィリピン人に、山から出て来なければ私たちを殺すなどと言って、されに十人くらいのフィリピン人を捕まえました。日本兵は、ブラボードのハイウェー沿いの所でも、新たに五人のフィリピン人の首を切り落として殺した後、私やコノスら約八人のフィリピン人を解放しました。パナンカンの山からブラボードまでは徒歩で五時間以上かかりますが、ロープでしばられた手の皮がむけ、とても痛かったのです。
 日本軍に解放された後、私は母や姉が殺されたパナンカバンの山に戻って泣いていました。すると、近所の人や親戚の人が来て穴を掘り、母や姉や兄の死体を埋葬してくれました。私は、親戚の家に行き、水を飲み、食物を食べました。二十六時間何も食べていなかったのです。その後父が迎えにきたので、マカバの家に戻り、父や兄、姉らといっしょに生活しました。
 私は、日本兵に捕らえられ強かんされたことを父や兄に話しました。近所に住むほとんどの人も、私が日本兵に捕まり強かんされたことを知っています。私は、五人の日本兵に強かんされるという恥ずかしい体験をしたので結婚する気にはならず、これまで一度も結婚していません。(P.58~60)


PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
Mail
URL
Comment
Pass Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
忍者ブログ | [PR]