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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ ルフィーナ・フェルナンデス(Rufina Fernandez) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1927年7月10日生まれ。6人兄弟(もしくは5人兄弟)の長女。1944年15歳の時、父親を反日ゲリラの容疑者として連行しに来た日本兵に拉致される。その際、家族は日本兵に皆殺しにされる。駐屯地で将校に強姦され、以降、強姦される毎日を送る。何ヶ月か後、米軍が近づいてきた際、将校が同女の首を切り落とそうとするが、腕に当たりそのまま失神する。その後、米軍に助けられる。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家に日本兵がきて駐屯地まで連行される。


【考察】

下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)、及び「元『慰安婦』の証言」(以下、「元慰」)を比較すると相違点等は以下の通りです。

<父の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵になぐり殺された

<母の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵に何度もお腹を殴られて死亡
 → 「元慰」だけ、父も母も死亡理由が異なっています。目の前で殺されたのですから、どのような殺され方をしたくらい覚えているでしょう。

<兄弟の数>
○「写真」・・・兄弟の人数に関する記載なし。ただし、「私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います」とあるので、同女も入れると4人兄弟だと思われる。
○「フィ」・・・「家族は両親と5人のきょうだいで私は一番上でした」とある。5人の中に同女が入っているか不明なので、同女を入れて5人兄弟か6人兄弟。
○「元慰」・・・「私と両親とあと5人兄弟がいて私は長女でした」とあるので、同女も入れると6人兄弟。
 → 「写真」では、殺された兄弟の数は3人になっています。「元慰」には「私の家族はこうしてすべて殺されました」とあり、連行時に家族が皆殺しにあったことになっていますので、残りの兄弟が家にいなかったわけでもありません。それとも、それ以前に、残りの2人(もしくは1人)は病気等で死亡していたのでしょうか。ただし、集めた資料の中では、そのような記述はありません。
なお、「フィ」にも「写真」と同様の記述があり、連行時に殺された兄弟は3人になっています。

<トイレ>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました」
○「元慰」・・・「私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした」
 → 「フィ」と「元慰」では全く異なる証言をしています。

<毛布>
○「写真」・・・「日本兵は毛布さえくれずに」
○「フィ」・・・「日本軍は、毛布さえ与えず」
○「元慰」・・・「私は毛布一枚与えられただけでした」
 → 「元慰」以外は、毛布が全く与えられなかったことになっています。

<服>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「服などをもらったこともありません」
○「元慰」・・・「その後は(※逃亡した後)充分な食糧も着るものも与えられませんでした」
 → 「フィ」では服をもらってないことになっていますが、「元慰」の言葉からは、逃亡前は着るものを与えられていたことが伺えます。

<腕を切られた後>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私は軍刀で右肩を切りつけられ気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました」
○「元慰」・・・私の腕は骨が粉々にくだけて皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました」
 → 「フィ」と「元慰」の証言を合わせて考えると疑問の多い状況です。同女が意識を失って、再び意識を取り戻した時に「血はすでに乾いていました」とあります。腕が皮一枚でつながっているような状態で出血多量で死亡することもなく、血が止まっていたとは考えにくい話です。また、専門的なことは分かりませんが、日本刀で切りつけられて骨が粉々にくだけるものでしょうか。

 なお、上記の3つの資料は、「アメリカ軍が近づいてきて、証拠隠滅の為、将兵が同女の首を切り落とそうとして、仕損じて腕を切った」という内容で一致していますが、「日本軍政下のアジア」では「兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負った」と全く異なる内容になっています。同女が日本兵に腕を斬られたというのは甚だ疑問です。


同女の証言は、全体的に創ろうと思えば簡単に創れる内容であり、リアリティーに欠けます。また、話の骨格部分は証言毎に一致しているものの、重要な部分での相違も見られます。

さらに、同女の証言では、掃討作戦によるフィリピン人男性の皆殺しの話や、村の焼き討ち、そして、「多くの男達に穴を掘らせた後、射殺」という話も出てきます。日本兵の残虐さを示そうとする恣意性がありありと見えるようです。


【信憑性】

信憑性なし。創作でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1927年7月10日生まれ
フィリピン共和国ルソン島リサール州在住

 「米軍がやって来る」という話が到る所で聞かれるようになり、実際に米軍が来る数ヵ月前から、日本軍はフィリピン人男性を皆殺しにしたり家を焼き打ちにしました。日本軍は、ゲリラを捜し出すのに必死になっており、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなしていたのです。たくさんの男たちが、一列に並んで穴を掘らされているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められました。自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 殺されるのを恐れて、私の家族は近くの山に逃げました。しかし、食べ物もなく疲れてしまい、お母さんや兄弟は絶望で泣き叫んでいました。お父さんが「帰ろう」と言ったので家に戻ったのです。
 ある夜、寝ていたら日本軍が襲って来ました。日本兵が私とお父さんを連行しようとしました。お父さんとお母さんが抵抗したところ、次々と首をはねられてしまったのです。そして、私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います。生き残ったのは私だけです。
 私は灰色の自動車に乗せられて、家から20軒ほど離れた大きな家に、他の5人の女性と連れて行かれました。ここは日本軍の駐屯地で、50人以上の兵隊がいました。
 私はその中の部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官に強姦されたのです。それからは、毎日6人くらいの日本兵に強姦されました。将校たちは褐色の制服を着て長い軍刀と拳銃を持っていましたが、一般の兵士は緑色の制服で将校に比べると身なりも良くなかったです。
 監禁されていた部屋の床はコンクリートなので寒かったのですが、日本兵は毛布さえくれずに、私をまるでブタのように扱ったのです。そのため、喘息と肺炎にかかりました。私は逃げ出そうとしましたが、すぐに捕まってしまい、日本兵に平手で打たれたり蹴られたり銃床で殴られました。
 米軍がこの駐屯地を攻撃して来た時、私を最初に強姦した士官が部屋に入って来て、私の首をはねようとしたのです。その軍刀が私の右肩に当たり、腕がちぎれそうになって気を失いました
 1964年から一緒に暮らすようになった夫は、ジプニーの運転手をしていました。私はセメント袋から紙袋を作る仕事をしていましたが、2人合わせても1日20ペソしかありませんでした。1978年に夫は食道がんで亡くなってしまい、現在の私は無職で、小さな小屋に1人で住んでいます。(P.217~218)
1993.11 日本軍政下のアジア 小林英夫 岩波新書
 ルフィナ・フェルナンデスさん(六六歳)。マニラのシンガロン出身。父はサンミゲル・ビール工場ではたらいていた。女ばかりの五人兄弟の長女として一九二七年、マニラに生まれている。日本軍がマニラに侵攻してきたときは一五歳。英語とタガログ語を学んでいた。日本軍のマニラ侵攻直前に山へ避難し一年以上山中ですごしたが、安全を確認しマニラにもどり、自宅へと帰った一九四四年のある日、日本軍兵士五人が家に乱入した。娘たちに暴行をはたらこうとしたので父が抵抗、そのもみあいのなかで父は殺され、彼女は兵舎に拉致された。そこで兵士達の性的相手をすることを強要されたのである。三ヵ月のち、兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負ったという。まくってくれた右腕には数ヵ所の刀傷がふかくきざまれていた。(P.206~207)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、マニラ・シンガロンのタゴノ・ストリートで生まれました。生年月日は一九二七年七月十日と聞かされています。家族は両親と五人きょうだいで、私は一番上でした。父親は契約労働者(臨時雇用)で、時には収入がなかったこともありました。家族は、薪を売って生活のたしにしていたこともありました。日本軍がマニラを占領した当時、私たち家族の生活はとても貧しかったです。私は一年間だけ小学校にいきました。
 一九四三年までは比較的平和でしたが、アメリカ軍がくる数ヵ月前から、日本軍による地域掃討作戦がはじまりました。この作戦で、日本軍は出会ったフィリピン人の男たちを虐殺し、村を焼き討ちにしました。この日本軍の地域掃討作戦があるたびに、私の家族は近くの山に逃げていました。そのころ、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなされ、私が洗礼を受けたときの名づけ親の息子も殺されました。多くの男たちが一列に並んで穴を掘っているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められたのです。つまり日本軍によって自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 私は、日本軍の地域掃討作戦を避けて山に逃げていましたが、疲れて、食べ物もなく、母親やきょうだいは絶望して泣き叫びました。その後、私たちは山から戻り、防空壕のなかに避難していました。しかし、父親がシンガロン地区に帰ろうと言い、家族とともに帰りました。ある夜、家で家族みんなが寝ていると、突然日本軍が襲ってきました。日本兵は、私と父親を連行しようとしましたが、父親は抵抗したため、日本兵に首をはねられて殺されました母親も抵抗したために同じように殺されました私が日本兵に連れられていくその目の前で、最年少の妹も殺されました。残りの二人の妹も泣いていましたが、急にその鳴き声が止まったので、そのときに殺されたのだろうと思います
 私は、灰色の日本の自動車(旭日旗がついていた)に乗せられて、他の五人の女性と一緒に大きな家に連れていかれました。その家は私の家から非常に近く、二十軒くらい離れたところにありました。その家は日本軍の駐屯所で日本兵は五十人以上いました。私はその家の中の一つの部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官によって強かんされました。当時、私はまだ初潮はありませんでした。
 私は毎日六人ぐらいの日本兵によって、部屋のなかで強かんされました。家族が殺されたために気が動転していましたが、二人の将校を覚えています。将校らは、褐色の制服を着ていて、長い軍刀と拳銃を持っていました。一般の兵士は緑色の制服を着ていて、将校に比較すると身なりもよくなかったのです。私を強かんした者のなかには、兵士ではない別の日本人もいました。彼らは軍服を着ておらず、きちんとした身なりをしていました。彼らは、士官の知り合いだったと思います。私たちは暴力的な日本人を「コラニ」と呼んでいました。私は約三ヶ月間そこに監禁されていました。
 部屋には私一人だけでした。二人の見張りが部屋の外におり、食事はその見張りの兵士が運んできました。私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました。洗たく、炊事などを命じられたことはありませんでした。また、日本兵からお金をもらったことも、服などをもらったこともありません。私は一度逃げようとしましたが発見され、すぐに捕まってしまいました。そのとき、日本兵から平手打ちを受けたり、殴られたり蹴られたりしました。
 アメリカ軍がその家を攻撃してきたとき、日本兵が部屋に入ってきて、私の首をはねようとしましたしかしその軍刀は私の肩に当たり、腕がちぎれそうになりました。この日本兵は士官の一人であり、私を最初に駐屯所に連れてきて強かんした男でした。私は軍刀で右肩を切りつけられて気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました。私は約一ヶ月間そのテントにいました。(P.52~54)
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社
 私はルフィーナ・フェルナンデスです。一九二七年生まれで六七才になります。私の体験をお話させていただきます。一九四二年のことです。その時の家族構成は私と両親とあと五人兄弟がいて、私は長女でした。私の家族の生活はたいへん貧しく、父は建設労働者の仕事でした。兄弟も多かったので、学校も一年しか行けない状態でした。私たちが当時住んでいたのは、マニラ郊外のシンガロンという町です。
 一九四二年日本軍が占領した時、私は一四才でした。私の家族は日本軍がここに攻め込んでくることを聞いてセントラル・ルソンの山の方へ避難することにしました。山での生活は1年間でしたが、それはひどい状況でした。ます第一に食糧が不足していて、私たちが充分に食べられるものといえば、ココナツの実だけでした。生活も苦しく、状況も悪化していたので、父はマニラに戻る決心をしました。マニラに戻って数ヶ月後のことですが、地下のシェルターに隠れ住むことになりました。ここに潜んでいる間に日本軍がマニラに攻めてきました。そこでは男たちはほとんど殺され、家は焼き払われました。実際に私の祖母の孫にあたる人は逮捕され、その後行方がわからなくなったということを聞いています。ここでの状況があまりにもひどかったので数ヶ月後、前に済んでいたマニラ郊外のシンガロンに移ることにしました。この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入りこんできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られて意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。

 私はふたり将校に車で連れていかれ、部屋に入れられました。その部屋というのは、まるで豚小屋のような部屋でした。そこには私を含めて五人の女性が入れられて、それぞれ、しきりの中に入れられました。私はそのしきりのひとつの中で日本軍の将校からレイプされました。その後で別の六人の日本の軍人がやってきて、私をレイプし続けました。私の体は非常に疲れて、激痛に苦しんでいましたけれど、あまりのつらさと悲しさで泣き叫ぶことさえ忘れていました。そして、そのままの状態で何ヶ月か監禁されていました。この豚小屋のような部屋で私は毛布一枚を与えられただけでした。マットもなくそのまま床に座って寝る生活でした。とても寒く体はこごえそうでした。トイレは外にありましたが、私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした。私はそういう状態に耐えられず、二回逃亡を試みました。一回逃亡を試みた時です。私は部屋に連れ戻され、その後したたかに殴られました。ほどんど殺される一歩手前まで殴られました。その後は充分な食糧も着るものも与えられませんでした。私は連れて来られた時に身をつけていたものを何度も何度も洗濯して着続けていました。
 それから三週間ほどしてからでしょうか、アメリカ軍がこの地域に近づいたという情報がはいると、最初に私をレイプした将校が私を殺そうとしました。彼は「サムライ」の持っているような日本刀で私の首をはねようとしました。私がちょうど刀を避けようと腕を上げた時に、その刀が私の腕に当たりました。彼はそのまま切ったわけですが、彼が切ったのは私の首ではなくて、私の腕でした。しかし私の腕は骨が粉々にくだけ皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました。アメリカ軍の兵士は私を見つけるとキャンプにつれて帰り、充分な手当をしてくれました。そこで私はひと月近くアメリカ軍のキャンプで手当をうけてようやく元気になりました。(P.6~8)


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