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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 河順女(ハ・スンニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年普州(チンジュ)生まれ(※戸籍上は1918年になっている)。家が貧しく小学校に正規の入学年齢より遅れて入学する。その為、学友達にからかわれ学校に行くのが嫌だったが、どうしても行けと父親に叱られて着のみ着のままで家出。その後、光州で女中をしていたが、20、21歳の時、金になるからと日本人と朝鮮人の男に誘われるままついて行き、上海で慰安婦生活を強いられる。

1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2000.5.5死亡。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。騙した日本人と朝鮮人に連れられ、大阪経由で上海へ行く。その日本人が同女の入れられた慰安所の経営者だった。


【考察】

裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の点で大きく異なっています。

慰安所の主人に頭を棍棒で殴られた後、病院で治療を受けさせてくれたのは
 ○「裁判」・・・東京出身の衛生兵らしい優しい日本人
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉
その後
 ○「裁判」・・・その後1ヶ月くらいは顔が腫れ上がったため、軍人の相手はせずに働いていた
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉が「飯炊きだけをして軍人の相手をするな」と言ってくれ、以降、炊事洗濯をして終戦を迎える

「裁判」では、親切な計らいをしてくれた陸軍少尉の記述が抜け落ちています。裁判を意識して、ヤマモト陸軍少尉のエピソードを削除したのでしょう。「証言」の内容を信じるなら同女が慰安婦をしていたのは約1年間です。(ただし、「裁判」では上海についてからずっと慰安婦をしていたと読み取れる内容になっています)

恐らく、「証言」の内容が真実で、「裁判」の内容は弁護士か支援者の入れ知恵でしょう。


【信憑性】

一部内容を変更する等、細かい所で嘘が紛れている可能性もありますが、全体としては信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の証言 ***** ****
私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。~(中略)~主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました。~(中略)~3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしき優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。チョウさんの話では、そこの衛生兵は主人から慰安婦が働かないからなぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです。
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 そんなある日、二十か二十一歳になった頃だったと記憶しています。子供を寝かしつけ、近所の女中たちと集まって話をしていたところ、朝鮮人の男一人と日本人の男一人が近づいてきました。~(中略)~自分たちについて日本の大阪に行けば、たくさんお金がもうかると話しました。金に欲が出てどんな仕事なのかも聞きもせず、ついていってしまったのです。主人へは断りもしませんでした。(P.86)

 私たちを上海まで連れてきた日本人の男がその家の経営者だということがわかりました。(P.87)

 ご飯を炊いてお膳につくと、経営者が食べるなと言いました。それでも座って食べていると、逃げ出した奴めと言いながらはげしく殴られました。殴られた傷が完全に治ったころ、軍人が頻繁に訪ねてきて私が断ろうとすると、経営者は棍棒で頭を殴りました。頭からひどく出血したため、私はそのまま気絶してしまいました。~(中略)~私が相手をしたことのあるヤマモトという名の陸軍少尉は、頭に包帯を巻き横になっている私を呼ぶと、病院へ連れて行き、治療を受けさせてくれました。~(中略)~頭の傷が回復した後はその家で飯炊きをして暮らしました。私を病院へ連れていったその少尉は、飯炊きだけをして軍人の相手をするなと言いました。それでその後は、食事をつくり洗濯をして暮らしながら解放を迎えたのです。(P.91~92)
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