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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 姜徳景(カン・ドクキョン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1929年慶尚南道普州(チンジュ)に生まれる。1944年、高等科1年生だった15歳の時、担任教師の日本人の勧めで女子挺身隊として富山県の不二越工作機械工場で働くことになる。仕事の辛さとひもじさに耐えられなくなり友達と共に脱走。憲兵に捕まって強姦され、松代の慰安所に送られた。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)
1997.2.2死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

工場を脱走した後、憲兵に捕まって慰安所に入れられる。


【考察】

~ 2007.6.25「日本国内に慰安所はないはず」との認識は誤認であった為、それに関する内容を削除・修正 ~
  ※ご参考・・・資料「日本国内の慰安所

 本来、日本国内にないはずの慰安所が出てくるのは疑問です。すくなくとも日本国内や朝鮮半島・台湾そして満州といった、日本が実質統治していた地域の都市部に日本軍の慰安所などないはずなのです。あったとすれば売春宿でしょう。

しかし、一方で、
証言の内容は真に迫っていると思います。少なくとも挺身隊で日本に来て脱走したというところまでは真実でしょう。

同女は工場を脱走した時にコバヤシという憲兵に捕まっているのですが、慰安所に入れられた後の会話で

 「そして私が不二越にいたことに気づいたようで『おまえは工場にいたのか?』と聞かれました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち)

とあり、連行された時には当該憲兵が、同女が挺身隊であったことを知らなかったことが分かります。そもそも、この憲兵の勘違いが原因ではないでしょうか(例えば、売春宿からの脱走者と思った等)。

また、証言には、憲兵に捕まった時の同女と憲兵とのやりとりが無く、何故、この憲兵が同女を慰安所へ送ろうと考えたのかは不明です。あくまで推測ですが、同女が工場に送り返されたくなかったが為に、自分がどこから来たのかを答えなかったことがこの憲兵の勘違いの一因になっているのではないでしょうか。

---------------------- 以下、2007.4.23追加 ------------------------
なお、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)を比べると以下通り内容に相違点が見られます。

<生まれた月>
○「写真」・・・1929年6月13日
○「証言」・・・1929年2月
→ 何故か異なっています。2月と6月なので旧暦と新暦の違いでもありません。

<挺身隊に行くことになった時期>
○「写真」・・・1943年秋で15歳(数え年)
○「証言」・・・1944年6月頃、16歳(※明記されていないが数え年)
→ 1年ずれて、年齢もそれに合わせてずれています。他の元・女子挺身隊の証言を見ると、1944年6月が正しいようです。本当に挺身隊だったのかも疑いたくなります。

<1回目の脱走の後>
○「写真」・・・「『模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか』と言われたものの罰は受けませんでした」
○「証言」・・・何度もぶたれた
→ 罰は受けなかったとしていたものが、何度もぶたれたことに変わっています。

<慰安所に入れられた後>
○「写真」・・・最初、同女を捕まえた兵隊の相手だけだったのが、3日後からは他の兵隊の相手もさせられた
○「証言」・・・3日後、同女を捕まえた憲兵の小林が来て、それから軍人たちが来るようになった
→ 慰安所に入れられてすぐに慰安行為を強いられていたのが、3日後から慰安行為を強いられるようになったことに変わっています。

<移動後の場所>
○「写真」・・・「マツヤマ」か「マツシロ」
○「証言」・・・思い出せない
→ 一方では、地名を覚えていて証言しているのに、一方では、思い出せないと言っています。「写真」では、わざわざ長野の「松代」(※戦時中、松代大本営があった)に行って証言をしています。
ただし、双方とも、「天皇陛下が来られる」という旨の記述があるので、やはり、本土決戦を想定して天皇移転を準備していた松代のようです。

-------------------- 以下、2007.6.27追加 --------------------
また、「写真」の69ページには、同女の写真と共に「市民たちが解体・保存している松代の『慰安婦の家」跡で座り込んでしまった。自分はここにいたのではないかと思ったからだという。」というコメントが載せられています。

しかし、この慰安所跡は以下の<ご参考>の通り、朝鮮人労務者向けの慰安所です。もし、そこにいたのなら、同女は主に朝鮮人労務者を相手にしていたことになり、そうすると、証言の中に朝鮮人労務者が一切出てこないのは、少なくとも正確なことを言っていないことになります。

-----------------<ご参考>-------------------------
<秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6>

「松代には西松組が七千人の朝鮮人労務者のために作った十五軒の慰安所があった」(日垣隆「松代大本営の真実」1944、136ページ、「週刊金曜日」97年2月14日号の馬場千奈津稿、NHK衛生第一TV「戦争・心の傷の記憶」98年8月14日放映) (P.188)


<松代大本営の保存をすすめる会編「新版 ガイドブック 松代大本営」新日本出版社2006.7>

「同年(注:1944年)11月ごろから、20歳前後と思われる4人の朝鮮人女性が、『親方』と呼ばれる朝鮮人の一家4人と、買い出し役をしていたらしい1人の下働きの男と一緒に住み込み、客に料理を出し、性の相手をさせられた。~(中略)~
 ここを利用したのは誰か。はっきりわかっていないが、日本の軍人たちは来ていなかったようである。崔小岩さんが「行ったことがない」と証言しているように、朝鮮人労務者も、過酷な労働の中で慰安所に出向くのは不可能と考えるのが妥当だろう。児沢さんの証言も合わせてみると、朝鮮人の中でも、現場の頭などをしていたような上層部の人たちが来ていたのではないかと考えられる。」(P.54~55) ※松代の慰安所跡の当時の様子等

「『慰安所』 児沢聡さんの証言 『~(前略)~次の日に詳しく聞いたら、そろそろ朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらしねように、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねてやるから貸してくんねかって言ってきたから~(後略)~』」(P.55) ※慰安所跡の家主の証言
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-------------------- 以上、2007.6.27追加 --------------------

---------------------- 以上、2007.4.23追加 ------------------------


-------------------- 以下、2007.6.17追加 ------------------------
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)で、秦郁彦氏は以下の通り、推理しています。

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 問題は上等兵らしき階級章をつけたコバヤシ憲兵の素性だが、この時期に富山地区憲兵隊(少佐以下20人前後)に勤務していた竹田安之憲兵軍曹、下徳浩令憲兵兵長は、(1)憲兵は他兵科から転科してくるので、上等兵はきわめて少数で、多くが下士官以上、兵は市内巡回などでは単独行動を許されていなかった。(2)一般兵と異なる憲兵の外観は、白地に赤文字の腕章をつけ、軍刀、ピストルを携行、長靴をはいていた。(3)憲兵隊には乗用車、トラックはなく、行動はサイドカー、自転車、乗馬によった。(4)不二越の近辺には遊郭があった、と回想している。
 二人とも心当りの事実はない、そういう氏名の憲兵はいなかったと断言するが、姜証言を素直に推理すると、コバヤシは遊郭と関わりのある業者で、軍服に似た国民服を着用していた可能性が高い。(P.187)
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-------------------- 以上、2007.6.17追加 ------------------------


【信憑性】

日本国内の慰安所に入れられたという証言は非常に怪しいものです。単に売春宿に入れられただけではないでしょうか。 2007.6.27削除

同女が本当に松代の慰安所跡にいたなら朝鮮人労務者のことが出てこないので、「もしかすると、一般の日本人や朝鮮人も含めて、『兵隊』もしくは『軍人』と言っているのではないか」という疑念が生じます。(ただし、「写真記録 破られた沈黙」では、「ここにいたのではないか」と可能性を示唆しているだけです。)
現時点では、判断は保留します。(2007.6.27追加)


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1929年6月13日生まれ 大韓民国ソウル市在住(P.58)

 高等科1年に通っていた時に、受け持ちの先生が家庭訪問で家に来ました。先生は「日本へ行くのは天皇陛下に忠義を尽くす道だ。白いご飯も食べられて、お金もくれるし勉強も続けられる。」と勧めたのです。私のクラスから2人が行くことになったのです。1943年の秋のことでした。(P.61)

 そして「不二越」に行ってから3~4ヵ月したある日、明け方に友達と逃げ出したのです。前に行ったことのある伏木の朝鮮人の家に行き、昼ご飯をもらいました。だけど、すぐに寄宿舎の舎監2人が来て、捕まってしまったのです。「模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか」と言われたものの罰は受けませんでした。(P.65)

 最初は、私を捕まえた兵隊の相手だけでしたが、3日後からは他の兵隊たちの相手もさせられるようになりました。兵隊は毎日やって来ました。1日に4~5人で、土曜日・日曜日には10人以上でした。ですから、土曜日はまるで死刑執行の日のように私には思われました。(P.67)

 それから何日かすると私を最初に犯した兵隊が来て、そこの部隊の兵隊と女たちを一緒に3台のトラックに乗せました。途中には右側に小高い山、左側には川か海が見えました
 着いたところは前よりも大きい部隊でした。まわりには畑が広がっていました。この部隊からは山が見えて、そのふもとには防空壕や村がありました。この防空壕は相当大きくて、この中でも兵隊の相手をさせられました。ここに来てから少しすると雪が降りました。(P.67)
 入れられた小屋には約20人の娘がいました。連れられてた小屋には約20人の娘がいました。連れて来られた私たち5~6人は、ここで生活することになりましたが、その女たちは他の所で暮らしているらしく、2~3日ごとにやって来ました。「慰安所」はここだけでなくて他にもあったようです。
 小屋は、建物の真ん中にある扉から出入りするようになっていました。中には5~6の部屋と食堂がありました。やって来たのは兵隊たちと、軍服は着ていたけれど階級章を付けていない者たちでした。
 私は女性たちの中で一番年下でした。私が「姉さん」と呼んでいた一番年上の女性に「ここはどこですか」と聞いてみました。そしたら「マツヤマ」だとか「マツシロ」とか言ったのです。
 兵隊の「小林」にも聞いたところ、口に手を当ててシィーと言いながら「ここは天皇陛下が来るところ」とか「避難に来るところ」と言いました。(P.68)

(※2007.4.23 追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二九年二月、慶尚南道普州の水晶洞で生まれました。父は早くに亡くなり、母が再婚したので私はほとんど母の実家で育ちました。母方の暮らしはまあまあ裕福な方でした。(P286)

 一六歳になった一九四四年六月頃、女子勤労挺身隊一期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科1年生のときです。高等科一年の日本の担任の先生が家庭訪問に来て、挺身隊に出るように言われました。勉強もできるしお金にもなるという話でした。先生が帰った後、私にだめだと言って母が泣いたりわめいたりして大変でしたが、私は行くことにしました。私のクラスから級長と私の二人が行きました。級長だった友だちはクラスで一番勉強ができ、家も金持ちでした。(P.287)

 不二越工場に到着してから二ヵ月ほど経った頃、お腹がすいて明け方に逃げだしたことがあります。以前行ったことのある新湊の朝鮮人の家に班長の友だちと一緒に逃げました。その家に隠れていたのですが、どうしてわかったのか寄宿舎から捕まえに来ました。工場に引っ張って行かれ何度もぶたれました。模範を見せなければならないおまえたちがこんなことをして、と怒鳴りつけられました。(P.291)

 工場からいくらも離れていない所でうろうろ迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。友達とは死んでも手を離さないで行こうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。私を捕まえたのは赤地に三つ星の階級章をつけた憲兵でした。~(中略)~再び車に乗ってある部隊に到着しました。部隊の横に見張りが二人立っていました。その部隊の後ろにテントのような家があり、しばらくここにいろと言われました。そこにはすでに五人の女性がいましたが、彼女たちは何も言わずにただ私を見るだけでした。(P.292)

 そこにしばらくいてから部隊が移動しました。高級タクシーのように車体の長い国防色の自動車一台とトラック三台に分乗し、女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。
 二度目の場所には丸一日もかからず着いたようでした。車に乗って移動するとき片側にはずっと海が見えていて、反対側には山がありました。到着すると近くに池のような川のようなものがあり、大部分は畑でしたが周囲は森のように木が繋がっていました。雪がたくさん降っていました。部隊はとても広く、平べったくて屋根の平らな建物が何ヵ所かありました。前のところとは違って民家もかなりありました。(P.294)

私はポクスン姉さんに、ここから富山県まで遠いのか、ここはどこなのか聞きました。ポクスン姉さんは富山は知らないと言いました。私たちがいた地名を聞いた気もしますが、思い出せません。(P.295)
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1944年6月頃、女子勤労挺身隊1期生として日本へ渡る。日本人の担任の先生が家庭訪問し、挺身隊員となるよう言いに来たのである。勉強もでき、お金も稼げると付け加えた。~(中略)~ハルモニは、そこから2度逃亡を試みた。最初に見つかったときは、工場に連れ戻され、ひどく殴られたという。2度目に逃亡を試みた際には、憲兵につかまってしまい、そのままトラックに乗せられた。ハルモニをつかまえた憲兵は、移動中の山中でハルモニを強姦した。それから部隊へと連れていき、その裏側にあるテントのような家にとどまるよう命令した。そこにはすでに、5人ほどの女性がいた。一つずつ仕切られた狭い空間で、1日に10人ほどの軍人の相手をしなければならなかった。(P.140)

(管理人注:ハルモニ・・・韓国語でおばあさんという意味)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


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