元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ ピラー・F・フリアス ◆◆◆
※ピラール・フリアス、ピラール・フィリアスと表記される場合もあり
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1926年10月5日生まれ。1943年16歳の時、ゲリラ捜索に来た日本兵5人に強姦される。一旦、家族と共に別の村に移るが、1年後、また村に戻ってきて、1944年10月頃、他の3人の女性と共に日本兵に連行され慰安婦を強いられる。1945年1月、アメリカ軍の侵攻と共に解放される。
1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本兵に連行される。
【考察】
下記資料の「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下「私は」)、および、「LABAN! Fight for Comfort Women 『Dear Prime Minister Shinzo Abe:Join Me』」(以下「LA」)を比較すると以下の通り内容の相違があります。
<最初に日本兵に暴行を受けた年>
○「フィ」・・・1943年、16歳
○「私は」・・・1943年、16歳
○「LA」・・・1942年(年齢の記載なし)
→ 「LA」だけ異なっています。
<日本兵に強姦された場所と状況>
○「フィ」・・・ココナッツ・プランテーションで20歳の叔母と家畜の世話をし、洗濯をしていた
○「私は」・・・家の前で洗濯をしていた(叔母が一緒だったかは不明だが、家には叔母と従姉がいたことになっている)
○「LA]・・・記載なし
→ ココナッツ・プランテーションは家の前にあったのでしょうか。
<日本兵にナイフで切りつけられる等の暴行を受けた理由>
○「フィ」・・・日本兵にゲリラの妻かと聞かれて否定したので
○「私は」・・・日本兵がゲリラの妻であると言い出したが、何も答えなかったので
○「LA」・・・兵士達が日本語で叫んだが、混乱した同女が反応しなかったので
→ 「フィ」だけ違っています。ゲリラの妻であることを否定して暴行されたら傍若無人としかいいようがないですが、「何も答えなかった(反応しなかった)」のなら、無視したと思って日本兵が怒ったのもうなづけます。
<ナイフで切りつけられた状況>
○「フィ」・・・「ジャングル・ナイフで、私の右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺しました」
○「私は」・・・「持っていたジャングルナイフで私に対して切り付けてきたのです。私は体を避けるようにしてしゃがんだために、そのナイフが私の鼻の上の方から下に突き抜けるような形で突き刺さりました。右目の下も切られ、血がたくさん流れて」
○「LA」・・・「その兵士は怒って彼女の鼻をナイフで切りつけました」
→ 「フィ」と「LA」では、日本兵が最初から鼻を切り付けようとしたと読み取れる内容ですが、「私は」では状況が詳しく証言されています。どこを切りつけようとしたのか、それとも、単に脅そうとしたのかは不明ですが、同女が避けようとしゃがんだ為に、頬と鼻が傷つくことになったようです。
<強姦に至るまでの日本兵の暴行>
○「フィ」・・・①ゲリラの妻であることを否定、②平手打ち、③ナイフで右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺す、④頬と鼻にタバコの火を押し付ける、⑤頭をタライの水につける、⑥強姦
○「私は」・・・①日本兵の問いかけに何も答えない、②右頬にタバコの火を押し付ける、③同女が叫び声を上げる、④平手打ち、⑤ナイフで鼻を突き刺す(右目の下も切られる)、⑥頭をバケツの水につける、⑦強姦
○「LA」・・・①日本兵が叫んでいるが無反応、②タバコの火を顔に押し付ける、③同女が泣き叫ぶ、④ナイフで鼻を切りつける、⑤頭をバケツの水につける
→ 流れ的に「私は」と「LA」は一致していますが、「フィ」だけ異なっています(特にタバコとナイフの順番)。
どちらが話の流れとして辻褄が合っているかと言えば、「私は」と「LA」でしょう。何故、「フィ」では順番がぐちゃぐちゃになっているのでしょうか。
なお、「LA」では、この時、同女が強姦されたとは記載されておらず、二度目に日本兵に捕まった時にレイプされて出血しながら連行されたことになっています。「LA」では、この時、同女が処女で出血が止まらなかったことを示しているのでしょう。他の元・慰安婦の証言でも、処女であるにも関わらず複数にレイプされて出血が止まらなかったという話がよく出てきます。
「LA」の記述内では辻褄があいますが、「フィ」や「私は」とは証言が一致していません。なお、「フィ」と「私は」には、連行時に出血していたという記載はありません。
<一緒に強姦された女性>
○「フィ」・・・一緒にいた叔母1人
○「私は」・・・強姦時に叔母は出てこない。
○「LA」・・・強姦話はない
→ 強姦されていなかったり、叔母も共に強姦されていたり。
なお、「日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2005in京都」では、「3人のおばと一緒に性暴力被害にあいました」となっており、強姦の被害者が4人になっています。
<2度目に日本兵に捕まった年>
○「フィ」・・・1944年10月ごろ、18歳
○「私は」・・・1944年(年齢の記載はない)
○「LA」・・・1942年、17歳。(※1942年に日本兵と2度の乱闘があったと記載されている)
→ 何故か「LA」だけ、1度目も2度目も1942年の話になっていて、他の証言と一致しません。(※「フィ」も「私は」も、2度目は1年後の話と記載されていて、同年の話ではありえない)
また、生年の1926年10月が正しいのなら、1942年は17歳ではありません。「フィ」も「私は」も1926年で生年は一致していますが、1925年生まれという話もあるのでしょうか。(※「LA」には生年は記載されていないが、2007年3月に81歳なら1925年生まれになる)。
<監禁されていた女性達が強姦以外にさせられたこと>
○「フィ」・・・日本兵の衣服の洗濯。食事の賄いは一緒に連行されたフィリピン人の三人の男性がさせられた。
○「私は」・・・日本兵の衣服の洗濯や食事作り
○「LA」・・・記載なし
→ 「私は」では、食事作りも同女たちがしたことになっており、フィリピン人の三人の男性は出てきません。
証言毎に話の骨格は一致しているのですが、レイプされていないのがレイプされていたり、叔母も一緒にレイプされていたり、さらには、一緒にレイプされた叔母が3人になったりと、とても信頼できる内容ではありません。
また、同女の証言の疑問点は以下の通りです。
<なぜ、同女は慰安婦として選ばれたのか>
・・・同女は、村にやってきた日本兵に「ついて来い」と言われ連行されます。既に捕らえられていた他の三人の女性同様、慰安婦にするのが目的でしょう。
この時、同女は、以前、ナイフで右目の下を3センチメートル切られ、鼻は穴にまで貫通した傷あとがはっきりと残っている状態です。普通、わざわざ慰安婦として選ばないでしょう。
なお、「私は」では、この顔の傷が原因で当時つきあっていたボーイフレンドと別れることになったと証言しています。
<日本軍は二ヵ月間もゲリラが来るのを待っていた>
・・・「私は」によると、ゲリラのキャンプ地が既にもぬけのカラだったので、日本軍はそこでゲリラが現れるのを待っていたようです。そして、ゲリラを待つ一方で同女達を強姦して過ごす毎日。結局、ゲリラは現れずにアメリカ兵が侵攻してきて移動。日本兵は百人から二百人。
「フィ」によると、これは1944年10月以降の話で、1944年10月と言えばレイテ島での米軍との戦闘が始った月です。そんなのんきなことをしている場合ではないでしょう。
【信憑性】
話の骨格は一致しているものの、細かいところで証言毎の相違が見られます。特に強姦関連のものは看過できるものではなく、また、2回目の連行話も不可解です。
信憑性はないと思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 ―性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店 私は一九二六年十月五日、ルソン島の東南部ビコール地方の南にある南カマリネス州スプコットのアニブ地区の小さな島で生まれました。
当時、父は雇われて木こりをしており、家族は両親ときょうだい十五人で、私はその長女でした。父はよく働いたので生活は苦しくはありませんでした。
一九四三年、私が十六歳のとき、日本兵三百名ほどが抗日ゲリラ掃討作戦のためアニブ地区にやってきました。すぐによそへ行ったほうがよいと警告されていたのですが、私の家族は逃げなかったのです。
そして、両親が日本兵に呼ばれて会議に出ている間、私は二十歳のおばと小さなココナッツ・プランテーションで家畜の世話をし、洗たくをしていました。そのとき、五人の日本兵がゲリラ捜索のためにやってきました。
そして、私にゲリラの妻かと聞きましたが、私が否定すると、一人の日本兵が私の顔を平手で殴り、腰にさしていた刃わたり二十五セントメートルくらいのジャングル・ナイフで、私の右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺しました。そのため、右目の下を三センチメートル切られ、鼻は穴にまで貫通した刃のため潰れてしまいました。いまも顔面に傷あとがはっきりと残っています。
さらに日本兵は、頬と鼻にタバコの火を押し付けた上、頭髪を掴んで頭をタライの水のなかにつけたあと、両手を後手にして木にしばりつけました。おばも同様でした。そして私は、二人の日本兵に両手をしばられたまま、地面に寝かされ相次いで強かんされました。おばは三人の日本兵に強かんされました。日本兵はその後、ニワトリを奪っていきました。少しして、母が帰ってきてくれて助かりました。母は、傷を見て、どうしたのかと尋ね、私はすべて話しました。
このことがあって、私の家族は九キロメートル離れたカブサオという漁村へ避難しました。そこではお菓子を作って暮らしました。
その後、日本兵は、アニブ地区の家を学校を除いてすべて焼きつくしたと聞きました。
カブサオでは一年間過ごしました。自生のバナナ、ココナッツ、キャッサバなどを食べていました。
一年たった一九四四年十月ごろ、私が十八歳になったころ、アニブ地区に戻りましたが、家は焼かれてなくなっていたので、唯一残っていた学校で家族が暮らすことになりました。
戻って来て一週間がたった日、父が外出していなかったとき、学校へ二百人ほどの日本兵がやって来て「ついて来い」と言いました。私は抵抗しましたが、なす術もなく、縄でつながれ、午後五時ごろ山まで連行されました。私のほか、女性三人(名前はシルピーナ、マルガリータ、ロシータといいましたが、他の地区から来たので知っている人はいませんでした)、男性三人が同時に連行されていました。
最初の夜、私はテントのなかに寝かされ、縄でつながれたまま十人以上の日本兵に輪かんされました。
次の朝、山のなかを歩き、昼ごろ、ゲリラのキャンプ地に着きました。しかし、ゲリラは出発していていませんでした。
ゲリラキャンプあとには十メートル四方の大きなニッパヤシで屋根を葺いた竹製の建物が一棟あり、私は、他の三人の女性とともにその家に二ヵ月監禁され、百人以上の日本兵に強かんされつづけました。
四人の女性は、強かんされるときも寝るときも、トイレに行くときも食事のときも約一メートル間隔で縄につながれたままでした。
食事は同様に連行されて来ていたフィリピン人の三人の男性が賄いをさせられました。
私たち四人は、日本兵の性的奴隷のほか、日本兵の衣服の洗たくを強制されました。また、日本兵に話をするときはまずお辞儀をするように強制され、しないとひどく叩かれました。
日本兵は強かんするときにコンドームはしなかったのですが、私は性病をうつされたり妊娠したりはしませんでした。
一九四五年一月、空にはアメリカの飛行機が飛ぶようになり、付近にアメリカ軍が侵攻してきて、日本軍はゲリラキャンプから移動することになりました。私たちは四人の女性は、半日歩いた先の大きな道路で、日本軍から「さよなら」と言われ、解放されました。それ以降、他の三人の女性と会ったことはありません。
私は、日本軍に見つからないようにと山間部を歩きつづけ、一週間後にアニブ地区に到着し、そこで家族と再会しました。(P.73~76)1997.8 アジアの声 第11集
私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版 皆さんこんばんは。私はピラール・フリアスです。一九二六年十月五日にフィリピンのルソン島南カマリネス州のシプコット町アニブ村という所で生まれました。私は、第二次世界大戦中に日本軍によって被害を受けた者です。現在六十九歳になります。
事件が起きたのは一九四三年のある日のことで、当時私は十六歳でした。その日多くの日本兵が私たちの住むアニブ村にやって来ました。三、四百人ぐらいはいたと思います。大きな日本の部隊でした。彼らは私たちの村人のおもな者を「ミーティング」と称して呼び集めました。私の父と母もそれに参加するために家を出ました。父は当時村で「バリオ・キャプテン」と呼ばれる村長のような役割についていましたので、出掛けて行ったのです。家には私と年上の従姉と叔母が残されました。
そして昼前の十時頃だったと思いますけれども、遠くの方から五人の日本兵たちがやって来ました。
彼らは口々に「こら、こら、シビリアン(民間人)」「たくさん、たくさん、ゲリラ」という言葉を繰り返しました。私はその意味がよく分かりませんでした。私はその時家の前に出てドラム缶に水を汲み、洗濯をしていました。日本兵の一人が、私がゲリラの妻であると言い出したようでした。そして彼らは私が何も答えないのに業を煮やし、一人の日本兵が私の右の頬に煙草の火を押し付けました。私が叫び声を上げると、さらに別の日本兵が私の顔を平手打ちし、持っていたジャングルナイフで私に対して切り付けてきたのです。私は体を避けるようにしてしゃがんだために、そのナイフが私の鼻の上の方から下に突き抜けるような形で突き刺さりました。右目の下も切られ、血がたくさん流れて、その時非常に大きな怪我を負いました。その傷は今でもはっきり顔に残っています。兵士は今度は私の頭をつかみ、水のいっぱい入ったバケツの中に何度も頭を押し込みました。それから私の手を縛って木につなぎ、強姦したのです。彼が終わると次の兵士に替わり、再び強姦されました。兵士たちはすべてが終わると立ち去っていきました。
私が最初の被害を受けて後、私たちの家族は別の村に避難することになりました。それは、アニブ村にやってきた日本兵が「この村にはたくさんゲリラがいる。だからお前たちは別の所へ行け」と命令したからでした。それで私たちは、カブソッドという別の村に避難しました。そして一年ほどたった一九四四年になってから、私たちの家族は元の自分たちの村に戻ることにしました。しかし戻ってみると、もう家はすでに全て焼き払われていました。住む家を無くした私たちの家族は、近くに唯一残っていた学校に一時避難することにしたのです。
学校の校舎で避難生活をしていると、一週間目になって、またたくさんの日本の部隊がその学校にやって来ました。百人から二百人ぐらいでした。そして三人の女性が、それぞれ紐で腰のところを縛り付けられた状態で兵士たちに連れて来られていました。学校に着いた日本兵士たちは、そこで御飯を炊いて昼食を食べると、私に向かって「お前はいっしょに来るんだ」と命令しました。私は抵抗しましたが、三人の女性たちと同様に彼らによって後ろ手に紐で縛られて、その部隊に連行されたのです。
日本の部隊は、バランバック山の方に向かいました。おそらく一時頃小学校の校舎を出たと思うのですが、その山の中腹には夕方の五時頃着いたと思います。兵士たちはゲリラのキャンプを捜していたのだと後で知りました。五時頃に着くと、日本兵たちは「休憩」と言い、お米を炊いて料理を作った後、私たちにも食べさせました。
それから彼らは古いテントを持ち出しました。そして山の中腹でテントを広げ、私たちもそこで寝るように指示されました。そしてそのテントの中で最初の夜、私は日本兵からまた強姦されたのです。兵士たちは次から次へと私を輪姦し続けました。私も他の三人の女たちも抵抗することが出来ませんでした。抵抗しようとすると、その日本兵たちによって、手や拳骨で殴られたり、足で蹴られたり、ひどい暴行を受けたのです。ですから抵抗出来ませんでした。
翌日また早朝に出発し、お昼頃にようやく彼らの目的であるゲリラのキャンプ地に辿り着きました。けれど何も見つかりませんでした。兵士たちは一ヵ所にとどまってゲリラの現れるのを待つことにしたようです。来る日も来る日もゲリラの現れるのを待つ一方で、兵士たちは私たち四人を強姦し続けたのです。そして昼間になりますと、日本兵たちの衣服の洗濯や食事作りをさせられました。私たちは逃げられないように、いつも腰に紐を結ばれていました。私たちはそこに約二ヵ月監禁されていましたが、彼らが私たちを強姦しない日は一日とてありませんでした。
一九四四年の終わりか四五年になっていたと思いますけれども、アメリカ兵が日本兵たちに降伏を呼び掛けたために、日本兵たちはそこで終わりを迎えたのでした。日本兵はトラックに乗って駐屯地に移動していったようでしたが、私たちはその場に置き去りにされたのです。ですから私たちは仕方なく自力で帰らなければなりませんでした。私は日本軍に見つからないように自分の村まで約一週間かけて、そのキャンプ地から歩いて帰りました。
私は、私がもう死んでしまったと思っている両親のところへ戻りました。私が連行されたまま二ヵ月も戻らなかったので、家族は私がまだ生きているとは、まったく思っていなかったのです。
当時私には、結婚を誓っていたボーイフレンドがいました。けれども、切られた傷が元で私の顔は醜くなってしまい、そのことが原因で彼は私と別れることになってしまったのです。
(P.109~2005.10 日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2005in京都 ***** **** フィリピン・マニラ在住。ピラールさんは歌が大好きで、リラ・ピリピナでロラたちが歌っている歌の歌詞をたくさん創作しています。「16歳で日本軍による性暴力の被害にあいました。ゲリラ掃討のために村に来た日本兵に、顔をナイフで刺され、後ろ手に縛られて、3人のおばと一緒に性暴力被害にあいました。18歳の時には、日本軍の駐屯地に連れていかれ、ほかのフィリピン女性たちと昼は洗濯などの強制労働、夜は性暴力被害にあうという日々が2ケ月間続きました。日本政府は私の身に起こったことについて謝罪してほしいです。日本政府は私たち被害者の尊厳を今も踏みにじっています」 2007.3.7 LABAN! Fight for Comfort Women 「Dear Prime Minister Shinzo Abe:Join Me」
※リンク先は英語***** **** 2007年3月7日
国際婦人デーのイブ
日本の内閣総理大臣の安倍晋三への招待状
安倍首相殿、
私達はまだ面識がありませんが、安倍首相をリラ・フィリピナの女性達に会っていただきたくご招待申し上げます。2007年3月2日首相は、「強制だったことを証明する証拠はない。第二次世界大戦下での軍による性奴隷が強制だったことを裏付けるものは何もない」とおっしゃられました。私は1998年から現在に至まで生存中のフィリピンの従軍慰安婦から情報を集めています。どうか、マニラのクエゾン市にある小さなコテージ、ロラス・ハウスにお越し下さい。そこには、元慰安婦達が集まり、首相が強制だったことを証明するのに必要な証拠があります。
もし、そこに81歳のピラー・フリアスがそこにいたら、1942年に彼女が拉致される前に日本人の兵士達と2つの乱闘があったことを語るでしょう。最初の事件では、兵士達が彼女を取り囲んで日本語で叫びました。混乱したピラーは反応しませんでした。いらついた兵士が吸いかけのタバコをこの女性の顔に押し付けて、肌に火傷の痕を残しました。彼女が泣き叫ぶと、その兵士は怒って今度は彼女の鼻をナイフで切りつけました。彼女の顔から血が飛び散って彼女が泣くと彼女の髪の毛を鷲掴みにして、バケツの水の中に彼女の頭を深く突っ込みました。その水は真っ赤に染まりました。兵隊達は彼女の家族の 牛やにわとりや豚などの家畜を盗んだ。又、お米や乾燥食品も奪った。2度目の乱闘では、彼女は違う兵士達に5度もレイプされた。17歳で流血している彼女の腰をロープで縛って他の3人の女性達と共にフィリピンのゲリラ部隊を射撃する時に同行させられた。頑丈な麻のロープで一緒にしばられて、4人の少女達は毎晩レイプされた。毎回違う兵士達に一晩に5回レイプされた。
もし、彼女の言葉だけでは十分な証拠にならないとおっしゃるのなら、総理の手を貸して下さい。女性達が話をするのを相手が聞いていると信頼できるとき、女性達は相手の手をとって彼女の傷跡にさわらせるでしょう。ピラー・フリアスの鼻は幅が広くて平らですが、傷痕がその鼻一杯に広がっています。指をその傷痕にそって走らせると実際、兵士がピラーを切りつけたところを感じることができます。指を彼女の腰に走らせると、3人の女性と一緒にロープでしばられて森に引きずられ、毎晩レイプされたときにできた傷痕がわかるでしょう。
これでもまだ強制の証拠と言えませんか?
2007.5.21 朝鮮日報「【フォト】日本軍による傷を見せる元慰安婦」 ***** **** 20日午前、ソウル水踰クリスチャン・アカデミーハウスで開かれた第8回「日本軍“慰安婦”問題解決のためのアジア連帯会議」で、フィリピンの元慰安婦ローラ・ピラ・イ・プリヤスさんが被害を証言し、日本軍につけられた傷跡を見せている。
2007.5.21 しんぶん赤旗「“ひもで結ばれて拉致”アジア連帯会議 元『慰安婦』が証言」 ***** **** フィリピン人のピラール・フィリアスさん(80)は「日本の憲兵、警察がとても怖くて、行かざるを得なかった。腰をひもで結ばれて拉致され、抵抗するとなぐられた。鼻を刺されて、その傷跡が残っている。顔にたばこの火も押し付けられた」と発言。「狭義の強制性はなかった」とする安倍晋三首相の強弁に反論しました。
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