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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ トマサ・サリノグ(Tomasa Salinog) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

愛称:ロラマシン
1928年12月8日生まれ。母は同女を産んだ1ヵ月後に死亡。1942年、13歳の時、家に4人の日本兵がやってきて駐屯所近くの家に連行される。その際、父親は死亡。1年後、同女の部屋に、日本兵が鍵入りのズボンを忘れて行ったことを機に逃亡。その後、奥村という大佐に捕まり、1年弱、その自宅に監禁され慰安行為を強いられる。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月地裁は棄却の判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
1995年に日本政府が設立した財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」の一人200万円の「償い金」の受け取りを拒否。
2000年12月、女性国際戦犯法廷にて証言。
2007年4月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵が家にやってきて連行される。


【考察】

集めることのできた資料は全て、全体的に漠然とした内容。1年間過ごした慰安所の建物や部屋の様子、そして、そこでの生活の様子も出てきません。


また、下記資料の「破られた沈黙」(以下、「沈黙」)と「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)を比較すると以下の通り相違点があります。

<連行された夜に強姦された人数>
○「沈黙」・・・5人に強姦される
○「フィ」・・・ヒロオカ大尉に強姦された後、別の兵士に強姦される際、抵抗して頭を殴られ気絶する。意識が戻った時は誰かが私の頭の傷をお湯で拭っていた。
→ 「沈黙」では5人と明記されていますが、「フィ」では2人目に殴られて気絶してしまっています。気絶したのでは、その間も強姦され続けたのかどうかも分からないでしょう。意識を取り戻した後のことは何も記述されていませんが、その後、強姦されたのでしょうか。

<最初に強姦された時間帯>
○「沈黙」・・・「夜中まで次々と強姦された」
○「フィ」・・・「夜中に私は父のことを思い、泣き続けました」とあり、その後、夜明け前に兵士達が入ってきて強姦される。
・・・時間帯が全く異なっています。

<監禁状態から逃げ出せたきっかけ>
○「沈黙」・・・上官から急がされた兵隊が、部屋に鍵の入ったズボンを置き忘れていった
○「フィ」・・・兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れていった
→ 微妙に違っています。「沈黙」ではズボンを忘れていったことになっていますが、ズボンなんか忘れたらすぐに気付くでしょう。

<一回目の監禁の期間>
○「沈黙」・・・約1年間
○「フィ」・・・・「どのくらいその家にいたかは覚えていません」と記載されている
→ 一方では凡その期間を証言しているのに、一方では覚えていないことになっています。


なお、「沈黙」、「フィ」共に、

 ①日本兵に駐屯地へ連行され、強姦される日々が続く(「沈黙」によると約1年間)
 ②脱走して、ある夫婦にかくまわれる
 ③オクムラという日本兵に捕まり、強姦され、洗濯や掃除をさせられる。(「沈黙」によると一年以内)

という内容で一致していますが、NGO「LOOB」のホームページによると

翌日から約3年間もの間、その将校はロラに掃除洗濯などをさせ、夜は性奴隷としてロラを扱った

となっており、③のオクムラ関連の情報が無くなって、全て、日本軍の駐屯地での話に統合されています。単に省略しただけでしょうか。
さらに、「沈黙」では、①~③が約2年間のはずですが、何故か3年間、性奴隷として扱われたことになっています。

(※「トマサ・サリノグの請願」でも「 それから約2年間、わたしは日本兵士たちによって奴隷として監禁され、強かん、虐待されました」と記載されている)
(※そもそも、このNGOの情報がどのくらいあてになるものかは不明ですが)


また、同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<部屋に鍵を忘れていったくらいで逃げ出せるのか>
・・・同女は、兵士が鍵の入ったズボンを忘れていった為に逃げ出すことができます。ズボンなんか忘れたたらすぐに取りに来るでしょうし、また、仮に、同女が鍵を抜き取ったとしても、鍵をかけられないままで済むとは思えません。
部屋にズボンを忘れた日本兵が鍵の管理をしていたのか、それとも、最後の部屋を使用した者が鍵をかけることになっていたのか。鍵かけのルールがどのように決められたのかは分かりませんが、どちらにしても鍵をかける際に鍵がないことに気づくでしょう。

現状の証言だけでは、逃げ出せる機会になり得たということが理解できません。
また、NGO「LOOB」の記事によると、「近所のフィリピン人が脱走を手伝ってくれた」ことになっています。さらにワケが分かりません。

<オクムラという大佐の家で監禁される>
・・・同女は、一回目の監禁から脱走した後、オクムラという大佐に捕まってその自宅に連れていかれ、強姦されたり、洗濯や掃除をさせられ、また、来客があるとその者との性交渉を強要されることもあったと証言しています。
当時の状況はよく分からないのですが、大佐にもなると、個別に住居を構えることがあったのでしょうか?

<2回目の監禁から解放されたのは日本軍が完全にいなくなってから>
・・・「フィ」には「日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました」とあります。
この記述だけで、解放された時の状況も不明確なのですが、アメリカ軍の侵攻に伴って日本軍が撤退し解放されたということでしょう。
言葉尻の問題かも知れませんが、「完全にいなくなって」という表現が気になります。オクムラは日本軍全員の撤退を待ってから自分も撤退したのでしょうか。

自宅を持っていたことと言い、オクムラはただの民間人ではないかと疑いたくなります。そう仮定して、「日本軍が撤退して危険になったので自分も移動するなり日本に帰るなりした」と考えれば、上の証言も納得がいきます。


【信憑性】

上であげた証言の相違点や疑問点だけでは信憑性を完全に否定できるものとは思いませんので、現状では、「疑わしい」という判断で留めたいと思います。

もっと詳細な証言を入手できたら、疑問点等も解消出来るかも知れません。


ただし、個人的には、「単に、オクムラという民間人の家に住み込みで働いていた際、無理やり妾状態にされただけではないか」と推測していますが。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1928年12月8日生まれ
フィリピン共和国パナイ島アンティケ州在住

 お母さんは、私を産んで1ヵ月で死にました。お父さんは貧しい大工でしたが、2人で平和に暮らしていました。私が13歳の時に日本軍にやって来たので、学校は閉鎖されました。
 お父さんと山の中に逃げたのですが、空腹のうえに劣悪な環境でした。アンティケ州の知事に「危害は加えられないから戻るように」と説得されたので家に帰りました。町中に日本兵があふれていました。
 山から戻って2週間したある夜、2人の日本兵が家に侵入してきました。1人は「広岡」大尉だと後で知りました。外にも2人いました。
 お父さんは私に隠れるように言いましたが、見つかってしまいました。彼らが私を連れ去ろうとしたので、お父さんは抵抗しましたが、「広岡」に刀で切られて倒れました。私が駆け寄って抱きしめた時には、お父さんの首は胴体から離れていたのです。
 日本兵は、泣き叫ぶ私を家から引きずり出し、駐屯地近くの2階建ての古くて大きな建物に連れ込みました。そこは日本軍に「食堂」と呼ばれていて、すでに多数の女性がいました。私は抵抗したのですが、「広岡」大尉に強姦されました。この時に殴られた頭の傷は今も残っています。この夜に5人に強姦されたのです
 日本兵たちに夜中まで次々と強姦されたので、私は何度も意識を失ってしまい何人から強姦されたのかわからないほどでした。空いているベッドで自分の番を待っている日本兵もいました。山のパトロールから帰った兵隊は、ココヤシから作った酒を飲んで凶暴でした。私はまだ初潮も迎えていなかったのに、豚小屋の中の豚のように扱われたのです。私はお父さんを思い出しては泣いていました。
 日本兵は、作戦に出かける時には家中の鍵をかけて行きました。ところが1年ほどしたある日上官から急がされた兵隊が、私の部屋に鍵の入ったズボンを置き忘れて行ったのです。私は逃げ出して、ある老夫婦にかくまってもらっていました。
 ところが、「奥村」という大佐に見つかって再び捕まってしまったのです。「石原産業」の隣にあった「奥村」の家で、彼だけでなく彼の友人たちからも強姦され、洗濯や掃除もさせられました。ここにいたのは1年以内でした
 私はこの日本兵による仕打ちで傷ついたので、日本軍が去ってからも決して結婚しようとしませんでした。
 私は「パナイ・ニュース」で、日本軍に被害を受けた女性たちを調査していると知りました。毛布を100ペソ(約500円)で売って交通費を作り、イロイロ市の女性団体の事務所に行ったのです。(P.162~167)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 ―性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私はトマサ・サリノグです。一九二八年十二月八日、アンティケ州州郡のサンホセに生まれました。母は私の生後一ヵ月で亡くなり、きょうだいはおりません。
 一九四二年に日本がフィリピンを占領したときには私は十三歳でした。私は父と山へ疎開しましたが州知事が州都は安全になったと宣言したことを機に家へ戻りました。山から家へ戻る途中に初めて日本兵を見ました。サンホセは日本兵であふれていました。
 日本兵の駐屯所が家のすぐ近くにあったので通りを行く日本兵をよく見かけました。兵士たちは私のじゃまをすることも、私たちを傷つけることもしませんでした。少なくともしばらくのあいだは。
 しかし、二週間後、父と私が寝ているところへ、日本兵が押し入って来ました外にはほかに二人が待機していました。二人の兵士が私を連行しようとしたため、父は抵抗しました。するとそのうちの一人、後でヒロオカ大尉と知るのですが、彼が剣で父の首を打ちました。父を助けようと駆け寄り、抱き起こすと頭がなくなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。私は父の亡骸につきそいたいと、放してくれるよう頼んだのですが、日本兵は気にもとめませんでした。首を切り落とされた父の亡骸はそのままに放置されました。
 私はサンホセのゴビエルノ通りにある二階建ての家に連れていかれました。日本軍の駐屯所がする近くにありました。日本兵は私をなかに入れ、鍵をかけて出ていきました。夜中に私は父のことを思い、泣き続けました
 夜明け前にヒロオカ大尉と他の兵士が部屋に入ってきました。彼らは、弱っていて、打ちひしがれている私にセックスを強要しました。私は強く抵抗しましたが、ヒロオカは私を強かんしてしまいました。ヒロオカの後に次の兵士が強かんしようとしました。私は弱っていましたが、再び強く抵抗すると、その男は何かで私の頭を殴り、私は気絶しました。意識が戻ったときにはだれかが私の頭の傷をお湯で拭っていました
 その後三日間は部屋のなかに一人でおかれ、日本兵は来ませんでした。しかしその後は日本兵が来て私を強かんしました。私は何度も気を失ったので何人に強かんされたかは覚えていません。毎日二人から五人くらいの兵士に強かんされました。
 どのくらいその家にいたかは覚えていません。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。部屋のなかにただ座って何時間もぼんやりと宙をみつめていました。いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。父がどこに埋葬されたかもわかりません。
 ある日兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れたのを機に逃げ出しました。ある夫婦の家へ逃げ込み、かくまってもらい、私は家事の手伝いをしていましたが、長くは続きませんでした。オクムラという日本兵が来て、引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました
 私はオクムラの家へ連れていかれ、奴隷のように扱われました。洗たくや掃除を命じられたほかにオクムラが帰るたびに強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。けれども私はオクムラの家から逃げだそうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本兵にセックスを強要されるよりは、オクムラの家のほうがましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。(P.48~49)
2001.11 NGO「LOOB」 「元従軍慰安婦ロラ・マシンの話」 ***** ****
 それは、ロラ・マシンが本当にまだ「少女」だった13歳のときだった。父親と住んでいた家に日本軍の将校が来て、「彼女を連れて行く」と父親に伝えた。激しく反対する父親に日本兵は怒り、彼女の目の前で父親の首をはねた。ロラが半狂乱で「タタイ!」(タタイ:お父さんの意)と近寄ると、頭がゴロっと床に向かって崩れたという。翌日から約3年間もの間、その将校はロラに掃除洗濯などをさせ、夜は性奴隷としてロラを扱った。この将校だけでなく、他の兵士の相手をさせられることもあった。近所のフィリピン人が脱走を手伝ってくれたが、また見つかって連れ戻されたという。

 日本軍に心も体も傷つけられた彼女は結婚せず、今も父親が殺された家で1人で暮らししている。母親が残してくれた足踏みミシンを使って、洋裁仕事で細々と生計を立ててきた。フィリピン人男性に求婚されたこともあるが、慰安婦だったことが分かって冷たくされたときはショックだった。

 ロラは、今でも父親の殺され方を思い出さない夜はない。何人もの日本人にレイプされた苦しみを思い出さない日はない、と語る。

(注)ロラ・マシンはトマサ・サリノグの愛称(管理人)
2007.3.30 日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク「トマサ・サリノグの請願」 ***** ****
内閣総理大臣 安倍 晋三 様

わたしはフィリピン、アンティケ州サン・ホセ市の住人で、現在78歳のトマサ・サリノグと申します。

1942年に、日本兵士たちがアンティケ州サン・ホセ市の私たちの家に強制的に踏み込んできたとき、わたしは13歳で、一人娘として父と二人で暮らしていました。
わたしの父は、兵士たちが私を連れ去るのを防ごうとして兵士たちにその場で殺害されました。

それから約2年間、わたしは日本兵士たちによって奴隷として監禁され、強かん、虐待されました。

日本兵士たちはわたしから唯一の家族を奪いました。わたしは赤貧の中、一人ぼっちとなり、面倒をみてくれる人もいなくなったため、学校に戻ることはできず、生き延びるために働かなければなりませんでした。戦争と、そして性奴隷にされたため、わたしの人生と将来は破壊されました。

わたしは今や年老い健康も蝕まれています。日本兵士による虐待と、生き延びるために余儀なくされた重労働によって負った病は、今もひき続き深刻さを増しています。

わたしは貧しく健康を害する中で、アジア女性基金の受け取りを拒否しました。
アジア女性基金による償い金では、私の、女性としての人権の侵害と深刻な犯罪行為を償うことはできません。

日本軍がわたしの父親とわたしに対して行った行為に対して、日本政府は責任をとらなければなりません。

安倍首相、わたしたちが語った真実を認めるよう、あなたへ要請します。
それが、わたしが祈り求めてきた正義です。
わたしたちは日本の平和への取り組みについて知っていますが、正義がなければ世界で平和は実現されません。
わたしが死ぬ前に正義が実現されることを願います。

                        トマサ・サリノグ
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