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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金学順(キム・ハクスン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.10.20、中国東北(満州)の吉林省に生まれる。生後間もなく父が他界し、2歳の時、母に連れられ平壌へ。14歳のとき母が再婚し、15歳の時、40円を受け取ってキーセン(※芸妓、芸妓兼娼婦のこと)を養成する家の養女となる。17歳の時、キーセン学校を卒業するが、19歳にならないと役所からキーセン許可がおりない為、1941年、養父に連れられ中国に行き慰安婦となり、4ヵ月後に朝鮮人男性と共に逃げ出す。

1991年8月に韓国で初めて慰安婦として名乗りを上げて証言を行い、同12月に文玉珠(ムン・オクチュ)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。2004.11月に最高裁棄却により敗訴が確定した。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1997.12.16死去


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

北京で軍人に連行され、慰安所に入れられる。


【考察】

下記資料を見ると、1991.8.11の朝日新聞の記事は「挺身隊+強制連行」と他の資料と全く異なった内容になっています。当該記事については、掲載された数日後には全く異なる証言がなされていること(1991.8.15ハンギョレ新聞)、また、裁判資料も後者の証言と一致していることを考えると、多くの方が指摘している通り朝日新聞の記事は記者による歪曲でしょう。なお、当該記者は慰安婦裁判の原告である「太平洋戦争犠牲者遺族会」の常任理事の娘婿でした。


また、「裁判の訴状」(以下、「裁判」)と「金学順(キム・ハクスン)さんの証言」(以下、「金学」)、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。

<父の死亡理由等>
 ○「裁判」・・・死亡理由の記載なし
 ○「金学」・・・三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった
 ○「証言」・・・独立運動をしていたとは記載されているが、死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」と記載。
 →「金学」だけ日本軍に殺されたことになっています。

<キーセンになった理由>
 ○「裁判」・・・理由の記載なし
 ○「金学」・・・母の再婚相手が嫌で家を飛び出した後、一人で稼がなければならなかったから
 ○「証言」・・・母が同女をキーセンを養成する家の養女に出した
 → 「金学」では、家出して自ら養女になった話だったのが、「証言」では、母が養女に出したことに変更されています。

<中国へ向かうことになった年>
 ○「裁判」・・・1939年数え17歳
 ○「金学」・・・17歳(西暦の記載なし)
 ○「証言」・・・1941年満17歳
 → 17歳は一致していますが、西暦は異なっています。同女は1924年生まれなので、17歳が数え年なら1939年、満年齢なら1941年になります。どちらが正しいのでしょうか?

<朝鮮ではキーセンの許可が降りなくて養父に連れられ向かう地>
 ○「裁判」・・・「そこへ行けば金儲けできる」とだけ書かれており、「そこ」が中国をさすのか「鉄壁鎮」をさすのか不明。
 ○「金学」・・・満州(※満州に行く途中の北京で連行される)
 ○「証言」・・・中国
 → 「裁判」では、最初から「鉄壁鎮の慰安所を目指していた」とも読み取れる内容になっています。
また、同女の働いていた慰安所は「鉄壁鎮」という場所にあり、鉄壁鎮とは満州の鉄壁鎮のことでしょう。つまり、「金学」では、北京で軍人に連行された後に図らずとも目的地に辿り着いたことになっています。それではまずいと言うことで「証言」では目的地を漠然とした「中国」に変えたのでしょうか。

<北京で日本の軍人に職務質問を受けるのが>
 ○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
 ○「金学」・・・食堂で食事をとろうとしている時
 ○「証言」・・・食堂で昼食をとり出てくる時
 → 「金学」、「証言」では、「裁判」にはない「北京で軍人に捕まった」という情報が追加されています。ただし、上記の「金学」と「証言」は微妙な違いですが。

<職務質問をした将校が>
 ○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
 ○「金学」・・・長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする
 ○「証言」・・・刀の話は出てこない
 → 刀を背中にしょってる将校などありえない話なので「証言」では削除したのでしょう。

<養父と別れた場所>
 ○「裁判」・・・鉄壁鎮(慰安所のあった場所)
 ○「金学」・・・北京
 ○「証言」・・・北京
 →「金学」、「証言」では共に、北京で軍人に捕まって養父と離れ離れになります。養父と鉄壁鎮で分かれたとしている「裁判」とは大きな違いです。

「裁判」と「金学」、「証言」との一番大きな相違は、「北京での軍人による強制連行」の有無です。
「裁判」では、鉄壁鎮まで養父と一緒に行って、そこで別れて慰安所に入れられたのが、「金学」、「証言」では、北京で軍人に捕らえられ、、そこから鉄壁鎮の慰安所に連行されたことになっています。
如何にも、後から取って付けた話です。


--------------- 以下 2007.6.23追加 ----------------------
<ご参考>

「強制連行あった派」の吉見義明氏は「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子編/大月書店/1997.6)で以下のように述べています。

 問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。(P.75)
--------------- 以上 2007.6.23追加 ----------------------


--------------- 以下 2007.7.12追加 ----------------------
<連行関連の証言の変遷>

1991.12 「裁判の訴状」

 養父に「金儲けができる」と説得され、トラックに乗せられて平壌駅で軍用列車に乗り換え中国の鉄壁鎮に行く。そこで養父と別れた後、慰安所に入れられる。

 → 特に強制連行を示す内容はありません。ただし、軍用列車に乗ったと証言して、若干、軍の関与を匂わせています。


1992.4 「元兵士たち証言 従軍慰安婦」

 部落の人が日本の警察官と一緒にやってきて、「お金がたくさん稼げるところがある」と説得される。その後、トラックと軍用列車で中国に連れて行かれ、鉄壁鎮の慰安所に入れられる。

 → 養女になってキーセン学校に通っていたことは、同書では語られていません。「部落の人」=「養父」でしょうか?(なお、同書からは、その「部落の人」が中国まで一緒に行ったかどうかは不明。)
 また、金儲けできると同女を勧誘した時の人物に「日本の警察官」が加わっています。公権力の関与の度合が増しました。

 なお、似た内容の証言をしている「1991.12.25朝日新聞」の記事では、「部落の人」が「地区の仕事をする人」と表現されていて、警察官は出てきません。

 さらに、同書では、「十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました」と、他の証言では見られない「処女供出」の情報が追加されています。同女は、「処女供出政策の一環で騙されて慰安婦にさせられた」と主張したいのでしょうか。


1993.10 「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」

 養父が「中国に行けば稼ぐことができるだろう」と言い、養父に連れられ平壌から汽車に乗って中国に行く。北京で日本の軍人に捕まり、同女は鉄壁鎮の慰安所に連行される。

 → 養父、もしくは、部落の人に騙されて慰安所に入れられた話だったのが、北京についた後に「日本の軍人に捕まった」という情報が追加されました。詐欺でもなんでもなく、完全な強制連行です。
また、今まで「軍用列車」に乗ったと言っていたのが「汽車」になり、さらに、「裁判の訴状」では、慰安所のあった鉄壁鎮で養父と別れたはずが、北京で離れ離れになったことに変更されました。


同女の証言の変遷を見ていると、「どうやって強制連行を話に盛り込むか」と試行錯誤している様がありありと見えてくるようです。

「裁判の訴状」の後、一旦、地元で公権力に騙されたことに変更したものの、結局、中国で日本兵に強制連行されたことに変更。より、強制色の強い方が良いと考えたのでしょうか。

また、中国で強制連行されたことにした結果、移動時に軍用列車を使用したのが、ただの汽車に変更され、勧誘時の日本の警察官も出てきません。中国に到着する以前で、軍や公権力の関与を匂わす必要がなくなったからでしょう。

なお、「中国で強制連行」話は、1992.8月刊行の「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」で登場し、以降、「中国で強制連行」に証言は統一されています。どうやら、この頃に、同女の強制連行話は完成したようです。ちなみに、「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」以降、私が知る限り、ただの「汽車」は出てきても「軍用列車」は出てきませんし、勧誘時の日本の警察官も出てきません。
--------------- 以上 2007.7.12追加 ----------------------


【信憑性】

同女の証言する強制連行は信憑性が全くないと言えるでしょう。
養父に売られた後、キーセン学校を卒業したものの朝鮮で営業できなかった為に、中国に行って慰安所に入れたという話で、その他の部分は信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991.8.11 朝日新聞 (大阪版) ***** ****
日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会(尹貞玉・共同代表 十六団体約三〇万人)が聞き取り調査を始めた。
1991.8.15 ハンギョレ新聞 ***** ****
生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった

(※管理人注:キーセン検番・・・キーセンの養成学校。)
1991.12 裁判訴状 ***** ****
原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年一七歳(数え)の春「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」は夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の嘶きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだった。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
1991.12.25 朝日新聞 ***** ****
「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」
『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」
平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」
「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれたところは、「北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」~(中略)~

日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか
1992 『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録 平林久枝編 ****
養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった
1992.4 従軍慰安婦 元兵士たちの証言 西野留美子 明石書店
 私は、満州の吉林で生まれました。私が生まれて百日もたたないうちに、父は亡くなりました。大きくなるにつれ、私は教会に行くようになりました。今思うと、貧乏だったけれど、母と一緒で幸せなときだったかもしれません。
 その頃、十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました
 ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。
「お金がたくさん稼げるところがある」
 説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。
 反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。
「お姉さん、どうしよう・・・・・・」
 部落からいっしょにきた友だちは一歳年上なので、お姉さんと呼んでいました。どうする術もなくただ暗闇のなかでおどおどしていました。するととつぜん、戸口から明るい光が入ってきました。昼間、私たちをトラックに乗せてここまで連れてきた日本人の将校でした。明りは、ろうそくの火でした。怖くて部屋の隅にうずくまっていますと、その将校は私の腕を引っ張りました。いやがる私を蹴ったり、脅かしたりして、となりの部屋に連れて行きました。
 部屋といっても、壁もない、ドアもない。ただ、カーテンがわりの布一枚で仕切ってあるだけでした。将校は、私に言いました。
「服を脱げ!」(P.113~114)

(※2007.7.12 追加) 
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
父は独立運動をしていたために、朝鮮では暮らす事ができず、「満州(中国東北地方)」へ行きました。父はそこで母と出会い、私は吉林省で生まれました。ですが、私が生まれて一〇〇日目のお祝いもしないうちに、父は死んだのです。原因は知りません。ですから兄弟はいません。(P.128)

 そのため、母の希望もあったし、一四歳で平壌の「妓生券番学校」という有名なキーセンになるための学校に入ったんです。ここでは舞踊・歌、チャングやカヤグムなどの楽器、書道から道徳まで勉強しました。学校は数百人いて、一緒に八~九人が卒業しました。三年間通って卒業証書をもらいました。
 この学校に入るにはお金がたくさん必要だったので、金泰元(キム・テウォン)という天安(テアン)出身の人の養女になって、お金を出してもらっていました。
 卒業した年に、この養父ともう一人の自分より一歳上の娘と一緒に、中国へ行ったんです。養父は娘二人を使って金儲けしようとしたらしいのです。
 ところが、着いてすぐに日本軍の兵隊が来て私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ、日本刀で脅したんです。殺さんばかりでした。将校が「娘たちを連れて行け」と兵隊に命令したので、私たちは連れて行かれました。だから、養父がその後どうなったのかわかりません。(P.129~130)
(※2007.4.6情報追加)
1993.2 金学順(キム・ハクスン)さんの証言 -「従軍慰安婦問題」を問う- 解放出版社編 解放出版社
 父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。~(中略)~ところが私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて亡くなったのです。(P.9~10)
 
 そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで家を飛びだしてしまったのです。私が十四歳のときです。
 こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって稼ごうかと考えた末に、キーセンの修行のできる家の養女になったのです。
 養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを十七歳になるまで、ピョンヤンにある学校で三年間習いました。(P.13~14)

 当時はキーセンも検番の許可を受けないと仕事ができませんでした。しかも、十七歳では許可がおりなかったのです。一九歳でないと許可がおりないんです。
 そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョンヤンでは暮らしていけないから、満州へ行こう」と言いました。私も「お金を稼がねば」と思って「満州」にいくことになったのです。(P.15)

 「満州」へ行くのは大変でした。私たち三人を乗せた汽車は新義州を出発して安東(アントン)橋を渡っていきました。~(中略)~
 中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でも行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのか知りませんが、私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、三日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが、北京でした。~(中略)~
 ある日、食堂で食事をとろうとしている時日本軍の将校に見つかってしまいました。~(中略)~将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜いてつきつけて養父を離れたところに連れて、ひざまずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。(P.16~17)

 私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。(P.18)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 卒業した年に、この養父と私より1歳上の娘と一緒に中国へ行ったのです。養父は娘2人を使って金儲けしようとしたらしいのです。ところが、着いてすぐに日本軍の将校と兵隊が私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ日本刀で脅したのです。殺さんばかりでした。「娘たちを連れて行け」と将校が兵隊に命令しました。
 私たちは「北支」の獲鹿県の部隊に連れて行かれました。そこは最前線だったので、連れられて行く途中にも「襲撃だ」と言われてトラックの下に隠れたのです。弾が、頭の上をかすめて飛んで行きました。(P84)

(※2004.4.23追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 母が私を中国で一九二四年に産んで、その後百日もたたずに父が亡くなったといいます。どのように亡くなったかくわしい事情はわかりません。(P.42)

 母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。~(中略)~母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。(P.43)

 券番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。それで養父は私を連れてあちこち駆けずりまわり、許可を得ようと必死でした。私が年齢より体が大きかったので、養父は年を大目に話したのですが、役所からは実際の年が十七歳だからだめだと言われました。
 国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました一九四一年、私が十七歳になった年でした。養父は中国へ発つ前に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました。出発する日、母は黄色いセーターを買って来てくれて、平壌駅まで出て来て見送ってくれました。
 平壌で汽車に乗って新義州から安東橋を渡りサンヘグァンへ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検問所に入って何時間か後に出て来ました。それからまた何日か汽車に乗って行きました。途中汽車の中で寝たり、旅館で寝たりしました。北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。~(中略)~
 北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。~(中略)~姉さんと私は別の軍人に連行されました(P.44~45)
1997.12.16 共同通信 ***** ****
金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)
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◆◆◆ 金順徳(キム・スンドク) ◆◆◆


※金徳鎮(キム・ドクチン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年慶尚南道生まれ。父親はタバコの密造(あくまで自分で吸っていただけ)がばれて日本の巡査に捕らえられ、鞭でひどく打たれて帰ってきた後、病にかかり死亡。以降、飢え死に寸前の苦しい生活となる。12歳の時、普州の銀行員の家で女中となり16歳まで働く。1937年17歳の時、日本の工場で働く女工の募集している朝鮮人の男に騙され、長崎に行きそこで軍人に強姦される。1週間後、上海に向かいそこで慰安所に入れられる。引率してきた朝鮮人が慰安所の経営者であった。
1940年、親しくしていた「イズミ」という軍人の好意により親友4人と共に帰郷する。

2004.6.10死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

釜山で、引率が騙した男から朝鮮の男女二人に代わる。そこから長崎に行き旅館で1週間過ごすが軍人の監視がつき、同女は階級の高い軍人に強姦される。同女たちを引率した朝鮮人が慰安所の経営者。


【考察】

慰安所までの移動途中で、軍人の関与があるのは長崎だけです。もし、軍の関与があって逃げないように監視が必要と考えていたなら、長崎のみで監視がついたのは疑問です。
また、証言では、長崎で毎晩のように軍人達に強姦され、同女の質問に対して軍人が「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と答え、軍人達が彼女達を慰安婦として働かすことを知っていたと思われる発言もしています。

長崎でだけ軍の関与を示唆する記述があるのも奇妙で、後からの追加ではないかと疑いたくなります。

-------------以下 2007.4.12追加---------------------------
また、下記資料の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993)(以下、「証言」)と「高槻私立総合総合市民交流センター『金順徳さんの証言を聞く会』」(2003)(以下、「高槻」を比べると下記の通り相違点があります。

<騙された仕事>
○「証言」・・・日本の工場で働かせる
○「高槻」・・・準看護婦

<長崎での強姦>
○「証言」・・・長崎で滞在していた1週間、毎晩、軍人に強姦される
○「高槻」・・・長崎経由とあるだけで、該当する記述なし
→ 「高槻」では、単に省略しただけかも知れませんが。

<追加された日本軍人の残虐行為>
○「証言」・・・該当する記述なし
○「高槻」・・・以下の証言が追加されている
   ・中国人の足を焼いて作った薬を飲まされる
   ・トラックに首をぶら下げていた
   ・南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
   ・「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。
→ 証言内容がエスカレートして過激さが増しています。韓国の学校で「ミナミナコロセ」等と唱えられた等、ありえないでしょう。

-------------以下 2007.4.15追加-------------------------
さらに、「私は「慰安婦」ではない」(1997)では、「証言」では「朝鮮の男が日本の工場で仕事をする女を募集していたので応募した」という話だったのが、「処女供出」の情報が追加され、「妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思」って自ら志願した話になっています。そして、志願した時に聞いた仕事内容が「臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する」と、工場で働くのとは全く異なる内容になっています。

また、この頃より、「中国の軍人の足を焼いて作った薬を飲まされた」という話が追加されているようです。
-------------以上 2007.4.15追加-------------------------

-------------以上 2007.4.12追加---------------------------



【信憑性】

もともとは、工場の女工に応募した話が、妹の代わりに自ら処女供出に志願したという話に変更され、また、後の証言になるほど過激な情報も追加しているようです。
信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十七歳の年(一九三七年)の陰暦正月中旬か二月の初めのころでした。就職を斡旋するので娘たちを募集するという話を聞いて「私も行こう」と考えていました。そうしたある日、朝鮮の男日本の工場で仕事する女を募集しに、また坪村に来たという話を聞きました。私は坪村に行ってその人に会い、日本に行く約束をしました。(P.59)

 釜山から船に乗ると引率者が新たに朝鮮の男女二人に替わりました。~(中略)~長崎に到着するとバスのような車が来たので、私たち一行はそれに乗って旅館に行きました。旅館に入ったその日から、軍人が私たちを監視しました。~(中略)~最初の晩、私は階級の高い軍人に連れて行かれ強姦されました。~(中略)~毎晩階級の高い軍人たちの部屋にあっちこっちとひっぱっられて行かれ強姦されました。五日ぐらい過ぎた時、私は軍人に「なぜ私たちを男の部屋に連れ回すのですか?私たちがこれからするのはどんな仕事ですか?男と寝ることなんですか」と責め寄りました。すると、「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と言われました。こうして一週間過ごした後、出発することになりました。(P.60~61)

 私たちを引率して来た朝鮮人が経営者のようでしたが、軍人が食べる物や家の衛生面の検査をしに来ました。(P.62)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
そしてまた松茸を採ったり木の種を採ったりして暮らしているうちに騒動が起こりました。それはどういうことかと言いますと、学徒兵、補給兵という名のもとに、日本は韓国人の男たちをたくさん連行して行ったのです。そのうえ「処女供出」ということが出てきました。一家族につき十五歳以上の娘を一人供出しなければ暮らしていけなくさせられました。けれど幼くても結婚していたり「障害」を持っていれば行かなくてもすみ、処女だけが連れて行かれたのです。それでその当時韓国では、まだうら若い娘を急いで結婚させたりしました。道を歩いていても学校でも、とにかくどこからでも連れて行かれたものですから、私は姉の家に行っていました。
 「供出」を恐れてどこかに隠れて逃げている娘たちが多いので、また違うことが出てきました。一家の中で姉を連れて行くなり妹を連れて行くなり、若い娘をとにかく誰か一人は連れて行くという噂出ました。そして私は妹があまりにも幼いので、妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思いで引率者に会いました。そして、何処でどのような仕事をするのかと尋ねますと、その人が言うには、臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する仕事をするという話だったのです。それで私は行くことにしました。一九三七年、数え年十七歳の時のことです。(P.40)

 私は毎日の様に血を流していました。病院というところに連れて行かれても出血は止まらず、そこの主人という人が幾つかの薬をくれました。何週かしてやっと出血は止まりました。その何ヶ月か後に主人が、「あの薬を飲んで少しは良くなったか」と聞きましたので、私は「病院に行って軍人たちがくれた薬を飲んで良くなったのか、ここでもらった薬を飲んだためか分からないのですが、出血は止まりました」と答えました。すると主人は「中国の軍人の足を焼いてそれを飲ませてやったんだ」と言ったんです。(P.42)
(※2007.4.15 追加)
1998.4.28 朝日新聞「『慰謝料少なすぎる』 韓国・比関係者」 ***** ****
原告の朴頭理さんと同じ「ナヌムの家」(京畿道広州郡)に住む元慰安婦の金順徳(キムスンドク)さん(七六)は農作業中に(関釜)判決を伝え聞いた。「別にうれしくも何ともない。その後、控訴されたら、判決がどうなるか分からないじゃないか。三十万円なんて、いまどき子供にアイスクリーム代でもあげると思っているのか。金はいらない。重要なのは日本政府の謝罪だ。私も(原告の)朴頭理さ んも死ぬまで闘うよ」と興奮しながらしゃべった。
2001.3.30 朝日新聞「韓国の支援者『右傾化』憂慮」 ***** ****
関釜裁判」控訴審判決に、韓国の元従軍慰安婦や支援団体からは、歴史教科書検定問題と重ね合わせて「日本の右傾化」を心配する声が相次いだ。韓国メディアは有力紙、東亜日報が29日付の早版一面で伝えたが、判決が出た事実を淡々と報じる姿勢が目立った。
 元慰安婦だった被害女性らが一緒に暮らすソウル近郊の「ナヌムの家」にいた金順徳さん(81)は判決を聞きに広島へ向かった原告からの朗報を待っていたが、先にメディアから請求棄却の判決内容を聞かされた。「日本という国は教科書をわい曲し、慰安婦問題でも責任をとらないのか」と叫んだ。
 支援団体の韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会も「今回の判決は歴史教科書の改悪問題と合わせ、日本が右傾化している現実をみせつけた」との声明を発表した。
2001.6.18 朝鮮新報 「日本の歴史わい曲許さない」 ***** ****
南朝鮮の性奴隷被害者、金順徳さん(81)は、11日の集会で17歳の時に日本軍にだまされ南京に連行された体験を話しながら、「犠牲者は今もたくさん生きているのに、教科書から『慰安婦』問題を消すとはどういうことか」と声を荒げた。
(※2007.4.12 追加)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1937年日本の工場で働く女性を募集しているという話を聞き、日本へ渡ることを決める。ただ工場へお金を稼ぎに行くものとだけ思い、それがとても危険なことだろうとは考えてもみなかったそうだ。
まず釜山までバスと汽車に乗せられ、そこから船で長崎に着いた。ハルモニとともに、30人の女性が連れて来られた。長崎に着いたその日の夜、ハルモニは軍人に強姦されたという。そんなことが毎晩続き、1週間経った頃、再び船に乗せられ、今度は中国の上海へと連れて来られる。一緒に日本へ渡った30人の女性が、一斉に移動させられたのである。そこではすでに、日本人女性2人と朝鮮人女性20人ほどがおり、新しく連れて来られた30人を合わせると、女性の数は50人ほどに達した。その50人のなかで、病気で寝込んでいる人などを除き、毎日平均35人ほどの女性が軍人の相手をさせられた。一日に30~40人の軍人が訪れ、寝る暇もないほどだったそうだ。部隊が移動すると、慰安所も後を追うように前線へと移動し、最後にとどまった所は南京であった。~(中略)~
慰安所生活を送って3年くらい経った1940年、「イズミ」は、ハルモニの体調があまり思わしくないこと、そして、戦闘もますます激しくなるだろうことを心配し、ハルモニに必ず自分が迎えに行くから先に帰郷するようにと言った。そして、ハルモニが一緒に帰ることを希望した4人の女性を含む5人を帰郷させるよう、慰安所の主人に命令した。慰安所の主人は、高級軍人の命令だけに拒むこともできず、ハルモニたちはお金を一銭も受け取れないまま帰郷した。(P.126~127)
(※2007.4.12 追加)
2003.4.4 高槻私立総合総合市民交流センター「金順徳さんの証言を聞く会」 ***** ****
日帝時代、準看護婦として韓国から連れられた。「これからどこへ行くのか?」と聞くと、「日本だ」と言われた。まず、小船で長崎まで行った。長崎から大きい船に乗り換え上海へ。上海に着いたとき「ここはどこなんだ?」と聞いたら「上海だ」と言われた。

そのとき、「誰が中国に来ると言ったんだ!日本に来るんじゃなかったのか!」と泣き叫んだ。日本人は聞くふりをしただけだった。すぐトラックが来て、乗せられた。上海の街中へ連れて行かれた。連れて行かれた所は戦いで家が潰されていた所だった。軍人たちが約50~100人の女性を小さな部屋が何個もある建物の中に入れた。上海から南京にかけては同じような(小さな部屋が何個もある建物)光景が続いてた。

15~17歳の少女たちは性器の所から血を流す。その度に軍が病院に連れて行く。何度も何度も病院に運ぶトラックが「痛い痛い」と叫ぶ少女たちを運んでいった。
私自身は、部屋にうずくまって血が出ていた時、日本人が薬をくれた。
薬を飲んだ後、「良くなったか?」と聞かれた。薬で良くなったのか、病院に行って良くなったのかが分からなかったから、「分からない」と答えた。そしたら薬をくれた日本人は「薬の中には中国人の足を焼いたものが入ってたんだ」と言った。
今でも夢に出てくる。足を切られた中国人が襲いに来る夢を。うなされる。

高位な軍人は慰安小屋に並ばない。高位な軍人のために少女達が集められる。下っ端の軍人が一番可愛い子を探してトラックで連れて行く。
高位な軍人は年寄りだった。はじめて相手をさせられた高位軍人の名前は「イズミ」だった。歳は50歳。その時私は17歳。
一つの戦闘があるごとに違う部隊の兵と相手をさせられた。週に一度身体検査があった。検査をしに行くために黒い布で覆われたトラックで行った。隙間から外を見ると人がいないような景色が広がってる。
人らしき物が見えたので「あれは何?」と聞くと、「このトラックに首がぶら下がってるんだ」と言ってた。
外は軍人だけが歩いていた。酔っているように見えたから「酔ってるの?」と聞けば、「酔ってるんじゃない。気が狂ったんだ」と軍人は言った。「人を殺しすぎて。」

当時南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」
韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。


未だにこの時の南京の夢を見る。
足を切られた中国人の夢と同じくらいうなされる。

週に一度の身体検査に行けば、少女が何人死んだかを教えてくれる。自殺が多い。薬、首吊り。いつも下(性器)から血が流れて、首を吊ったことがあった。しかし監視役がいたので死ぬことは出来なかった。
高位軍人の相手をしていたので2・3人の監視役がトイレに行く時もついてきた。
戦いの度に車に乗せられ高位軍人の相手をさせられに行っていた。
あまりにもつらかったので軍人に「死にたい」と言った。すると、「日本が勝てば、勉強も出来る」と言われた。
でも耐えれない。

「3・4人で一緒に死ぬと約束した」と言った。

すると”イズミ”がハンコをついた慰問袋(帰郷証)をくれた。袋をもらった後、韓国に帰れた。袋(帰郷証)を見せるたびに「何でこの人を知ってるんだ?」と聞かれた。
袋があったから韓国まで帰れた。韓国に帰った後、”イズミ”に手紙を書いた。週に一回くらいの割合で返ってきた。
唐辛子や、小麦粉も手紙にまぜて送った。「辛かった。おいしかった。」と手紙が返ってきた。 ”イズミ”との手紙、写真が沢山溜まったけど、朝鮮戦争の爆撃で全部無くなった。
(※2007.4.12 追加)

◆◆◆ 金福善(キム・????) ◆◆◆

金台善(キム・テソン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926.2.20、全羅南道康津(カンジン)生まれ。12歳の時、母がアヘンを吸う父と離婚し、その後、伯父の家に引き取られる。1944年、18歳になったある日、日本人一人と朝鮮人一人が伯父の家に来て「日本の工場に就職させてやる」と言われて無理やり連れ去られ、ビルマ(ミャンマー)のラングーンの慰安所に入れられる。約1ヶ月後、爆撃がひどくなってきた為、部隊移動の際、慰安所案内役の朝鮮人、及び他の慰安婦達と共に逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する(※裁判上は「原告C」)。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

ビルマへ向かう途中、釜山の収容所に入れられるが、そこでは軍服を着た朝鮮人が見張りを行う。


【考察】

同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

 ①「工場で働かせてあげる」は、他の元・従軍慰安婦の証言でよくある人間ブローカーや売春宿経営者の騙し文句です。しかし、同女の場合、あらかじめに「最近、娘を連行する人が多い」という噂まで流れており、また、食事をしていた時に「戸を蹴って入ってき」て同意もないのに「両腕をつかまれ二人に連れて行かれ」ています。他の同様な元・従軍慰安婦の証言には、最初からこんなに乱暴な人間ブローカーなどいませんし、同意もなく連れて行く者もいません。しかも、このような強引な手法を用いている割には集められた女の子は4人だけと、他の騙された元・従軍慰安婦と変わりません。

 ②同意無しに強制的に連行されるという衝撃的なシーンの割には、以下の通り、その時の伯父の様子もなく、描写・表現があまりにも簡素。同女が同意したのか拒否したのかも明記されていません。(明記されていないので同意しなかったと判断しましたが)

 「ご飯を食べ終わると、崔が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。(P.243)

 ③同女が一時、入れられた釜山の収容所では軍人が見張りを行っており、便所について行くのにもついて来る厳重さです。この時点では、集められてきた女性達は工場で働くと思っているのですから、こんな見張りは不要です。

 ④同女を騙して連れ去った日本人の服装を「国民服(あるいは軍服)」として、軍人だった可能性を示唆しています。この日本人は慰安所の受付を行っており、単なる慰安所経営者と考えるのが自然でしょう。また、その日本人と共に行動していた朝鮮人は慰安所の案内係をしています。

 ⑤15,6歳の時に母が死亡し、父は行方不明で、伯父の家に世話になっていたはずですが、ビルマから朝鮮に帰った後の話に伯父が全く出てきません。無理やり連れて行かれたのだから心配していて当然で、会いに行かないのは不自然です。慰安婦になってしまったことを恥じてのことだとも考えられますが、それならそれで、そのことが記載されていてもいいはずです。


-------------------- 以下、2007.4.10追加--------------------------

なお、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると下記の通り内容が異なっています。

<連行した人物>
○「裁判」・・・憲兵
○「証言」・・・国民服(あるいは軍服)を着た30代の日本人1人と背広を着た40代の崔(チェ)という朝鮮人1人
はっきり「憲兵」と証言していたのが、「軍人だったかも知れない」程度に濁されています。

<釜山の収容所での軍の関与>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・収容所には軍人がおり、日本の軍隊から握り飯を貰う。また、同女達の監視は、軍服を着た朝鮮人が行っていた

<慰安婦にされると気付いた時>
○「裁判」・・・ラングーンに到着してトラックに乗せられた時
○「証言」・・・サイゴンに来て初めて慰安所に行くことが分かる(※サイゴンはラングーンに着く前に立ち寄った所。何故、分かったかは記載されていない)

<慰安所に向かうトラックの軍人>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・日本の軍人が乗っていた

<慰安所と部隊との距離>
○「裁判」・・・軍の部隊は一度も見たことがなく、遠いところにあるようだった
○「証言」・・・部隊は慰安所からそれほど離れていないようでした

<「崔」という人物>
○「裁判」・・・同女たちは、連合軍の爆撃の混乱に乗じて脱走するが、その際、助けてくれたのが「崔」(日本名・岩岡)という韓国人兵士で、共に釜山まで帰る。
○「証言」・・・同女を騙して慰安所まで連行し、その慰安所で案内係をしたのが「崔」。また、「崔」は、部隊が移動する際に逃げようと提案してきて、同女たちと共に脱走、共に釜山まで帰る。


殆どが、微妙なものばかりですが、「崔」という人物の役回りは全く違っています。脱出の際に協力して釜山まで帰るのは同じですが、「裁判」では、脱走の際に突然、登場するのに対して、「証言」では、同女を連行した張本人の1人になっています。
「証言」には「崔はソウル出身の人でした。崔は私を慰安所に連行した人ですが、彼も当時はそうするよりほかになかったのだろうと思っています」(P.251~252)とフォローする文章もあります。「裁判」では、崔をかばって連行した張本人であることを隠したのでしょう。
しかし、このことは、証言者が意図的に証言内容を変更していることを示しています。他にも同様に事実を歪めているところがないのか、非常に疑わしいものです。

-------------------- 以上、2007.4.10追加--------------------------


【信憑性】

内容的には慰安所経営者に騙されて慰安所に入れられたという話ですが、果たして本当に同意も無しに連れ去られたのか、また、慰安所に向かう途中の釜山の収容所で軍人の見張りがついていたと言うのも疑問です。「強制連行」を意識して内容を一部変更しているのではないかと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
原告C(以下、「C」という。)は、一九二六年二月二〇日に生れた。三人姉妹の三女であったが、両親を早く亡くし伯父の家に預けられていた。
一九四四年夏には、Cは全羅南道唐津郡に住んでいたが、憲兵や警察が、各地で「人狩り」のように女性を強制連行していた。Cは、「隠れろ」というので、押入れに隠れたりしていた。
しかし、八月のある日、食事をしていた時に、憲兵がやってきた。伯父は、「早く隠れろ!」と怒鳴ったが、隠れるのが間に合わず、Cは、憲兵に腰をつかまれ、「工場に連れて行く」という理由で連行された
唐津では、C一人であったが、光州では五人増え六人となった。
六人は、光州から汽車で京城、仁川に連れて行かれ、合宿所のようなところに入れられた。そこには二〇人程の若い女性たちが集められており、そこで、身体検査を受けさせられた、その結果、五人が不合格になったが、Cは合格にされた。Cは仁川には一〇日間ほどいて、その間、女たちは四〇人ほどに増えた。
二人の韓国人が引率して、女性たちは監視人五、六名とともに汽車で釜山に下りた。一〇日ほど、船待ちをしている時に、Cは、スキを見て逃げようと思ったが、監視が厳しくて、とても逃げることはできなかった。
男性たちは、「大阪の女性だけの工場で働き、給料、衣服も支給され、一年も働けば帰れる」と説明をした。
Cらは大阪に着いたが、ここでも船を待つといわれた。「大阪に来たのになぜ船を待つのか」と聞いたところ、「大阪の工場はいっぱいなので、別の工場に行く」と言われた。大阪にいる間にまた人数が増え、兵舎に宿泊した。
その後、Cたちは、五階建ての大きな船に乗せられた、Cは、乗客のほとんどが女性であり、かつ、その人数が多いことに驚いた。
その船はあちこちに寄港し、沖縄でかなりの女性が降ろされた。
大阪から一五日ほどかかり、サイゴンに着いた。サイゴンについた時は女性は四〇人ほどになっており、Cは二〇人の女性と船を乗り換え、ビルマのラングーンに到着した。
港には軍隊しかいなく、トラックに乗せられた。この時、Cは工場に行くのではないと感じた。全員の女性が不安を覚えたようで、慰安婦にされるのではと思い、みなな泣いていた。
Cらは、トラックで三時間くらい走り、山の中の場所に到着した。そこには長屋のような建物があり、「軍人慰安所」という看板がかけられていた。建物には二〇室の窓もない部屋があり、二人入るといっぱいになるような狭さだった。そして、入口にはカーテンが掛けられていた。
(※2007.4.10追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九四四年九月の初めでした。満十八歳の時です。伯父が「最近、娘を連行する人が多いという噂だ」と言いました。そんなある日、伯父が外に出かけて戻ってくるなり、私に早く隠れろといいました。~(中略)~その日も隠れていましたが、あんまりお腹がすいたので下りてきて、家族と一緒に昼ごはんを食べていました。ところがちょうどその時、国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人一人と背広を着た四十代の朝鮮人一人が柴折戸を蹴って入ってきました。~(中略)~ご飯を食べ終わると、(※日本人と一緒に来た朝鮮人(管理人注))が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。三十分ほど歩いてバスの停留所まで行きました。そこからバスに乗って光州に着き、看板のない旅館のような所へ連れて行かれました。入ってみると、四人の女の子が来ていました。(P.242~243)

 釜山の収容所では、日本の軍隊から握り飯一つをもらいました。~(中略)~私たちの監視は日本の軍人ではなく、軍服を着た朝鮮人がやっていました。便所に行くのにも、ついて来るくらい厳重でした。日本の軍人とその朝鮮人の間では日本語を話していました。~(中略)~約四十人の女は大阪に行き、二十人くらいは下関に行きました。~(中略)~一九四四年十月初旬か中旬でした。大阪から百人ぐらいの女たちが、大きな五階建ての船に乗りました。~(中略)~三組に分けられましたが、私たちは二十人はビルマ(ミャンマー)のラングーンに行きました。私を康津から連行した日本人と崔も、ラングーンに行きました。(P.244~245)
私を康津から連行した日本人は、慰安所の入り口で軍人から券をもらい、崔が軍人たちに入る部屋を案内しました。(P.248)


◆◆◆ 金君子(キム・グンジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年生まれ。10歳で父、14歳で母をなくし、16歳の時、巡査をしている人の養女になる。1942年3月、養父から「お金を稼げるところがあるから」と言われて朝鮮人の軍人に連れられ、中国吉林省の琿春(フンチュン)の慰安所にて慰安婦を強いられる。

2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家から慰安所まで引率したのが朝鮮人の軍人。(ナヌムの家歴史館ハンドブック)


【考察】

同女は、養父から何をするのかを明示されずに中国へと行ったようです。この事実から、養父は何をするのかを知っていたと思われます。もし、養父も含めて騙されたのなら、騙された内容を同女に告げるはずだからです。同女は養父に慰安婦として売られたと考えるのが自然でしょう。

集めた資料では2006.3.2朝日新聞のみが「工場で働かせてあげる」と具体的内容を告げていることになっています(父ではなく、朝鮮人2人の言葉のようですが)。
詳しい証言は、あまり手に入れられなかったのですが、朝日新聞だけがこの情報を載せているのも奇妙な話です。
朝日新聞は1991.8.11に「女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」と金学順(キム・ハクスン)さんの証言を歪曲した例もありますし、「工場」という言葉をあえて挿入したのは、「『女子挺身隊=従軍慰安婦』という等式を世に浸透させたい」という意思の表れでしょうか。それとも、養父、本人ともに騙されたことにしたかったのでしょうか。

また、引率した人は、証言毎に軍人であったり、そうでなかったりしています。以下の資料では、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」と「東京の高校生平和のつどい」のみ軍人となっていて、その他では職業は記載されておらず、「ナヌムの家HP」では単に「30代ぐらいの朝鮮男」とあります。
この統一感の無さから、引率したのが軍人だったと言うことは非常に疑わしいと言えるでしょう。

なお、慰安婦になった年齢が16~17歳ですが、数え年と満年齢の混同でしょう。


【信憑性】

慰安所まで引率したのが軍人だったと言うのは、強制連行を意識して後から付け加えた創作でしょう。
その他の内容については信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1926年、江原道平昌郡で3姉妹の長女として生まれる。
 父親を10歳のときに亡くし、母親も14歳のときに亡くなる。その後、母方の叔母の家で過ごすこととなるが、生活は苦しく、16歳のときある巡査の家の養女となる。その養父に「お金を稼げる場所があるので行っておいで、稼げなかったら帰ってくればいいから」と言われ、家まで連れにきた朝鮮人の軍人と一緒に、故郷を後にする。1942年3月のことであった。
 迎えに来たその男はハルモニを貨物列車に乗せ、中国の琿春へ連れていった。ハルモニを含む8人の女性が、そこへ連れて来られたそうだ。着いた先では、すでに9人の女性が働かされていた。表の門の上に「キンカク慰安所」とかかれた旅館のような所で、1年半くらいを過ごした。軍人たちは、土日にひっきりなしにやって来た。一人で来ることはなく、将校に連れられて団体でやって来たという。前の庭では100人以上の軍人が、列をなして自分の順番が来るのを待っていた。多い日には、1日に40人ほどの相手をしなければならなかったそうだ。~(中略)~
 二度目に連れていかれた場所は、「コガ市」という所であった。部隊が移動するので、慰安所もともに移動させられたのである。7人の女性が連れていかれた。そこでの生活も琿春にいたときとほとんど変わりなかった。ハルモニは、そこで解放を迎えたのである。(P.128)
2005.6.23 北海道新聞 ***** ****
 ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。
 着いたのは、中国吉林省琿春の「慰安所」。翌日から兵隊たちが小さな紙の券を手に小屋の前で列をつくった。広さは三畳ほど。堅い木の寝台に裸電球。一日三十人の相手をさせられた。「ジュンコ」と呼ばれた。十七歳だった。日本語がわからなくて、よく殴られた。ただ、「コノヤロウ」「バカヤロウ」「チョウセンジン」という単語は今でも覚えている
2005.11 東京の高校生 平和のつどい ***** ****
養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。
2006.03.02 朝日新聞 ※リンク切れ ***** ****
17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP ***** ****
- 動員過程
叔母集から 16歳の頃まで住んで江原道鉄原に養女に行った. その家お父さんがチェ・チォル誌という人だったが巡使だった. 十七肉(1942年) 3月にチェ・チォル誌が私に金儲けしに行きなさいと言って 30代ほどなる韓国男と一緒に行った. 初めに私はおつかいを送るかと思って検定スカートに薄緑色チョゴリを着て荷物もなく何も持たなくてそのまま行った. ところで汽車を乗ってみるから私のような女が 8人が貨物室にあった. 見知らぬ女達だから黙黙と座っていた. ところでその汽車には軍人たちがとても多かった. どこに行く分からなくてずいぶん長い間行った. 汽車から降りてまたトラックに乗ってずいぶん長い間行ったら旅館同じ家が出た. 離層集であるその家に降りて入って行ったらその所に先に来た女達が九ミョングツムがあった. その所がすぐ薫春だった.
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
続いて、16歳だった42年に中国に連行された金君子さんが証言した

◆◆◆ 姜徳景(カン・ドクキョン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1929年慶尚南道普州(チンジュ)に生まれる。1944年、高等科1年生だった15歳の時、担任教師の日本人の勧めで女子挺身隊として富山県の不二越工作機械工場で働くことになる。仕事の辛さとひもじさに耐えられなくなり友達と共に脱走。憲兵に捕まって強姦され、松代の慰安所に送られた。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)
1997.2.2死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

工場を脱走した後、憲兵に捕まって慰安所に入れられる。


【考察】

~ 2007.6.25「日本国内に慰安所はないはず」との認識は誤認であった為、それに関する内容を削除・修正 ~
  ※ご参考・・・資料「日本国内の慰安所

 本来、日本国内にないはずの慰安所が出てくるのは疑問です。すくなくとも日本国内や朝鮮半島・台湾そして満州といった、日本が実質統治していた地域の都市部に日本軍の慰安所などないはずなのです。あったとすれば売春宿でしょう。

しかし、一方で、
証言の内容は真に迫っていると思います。少なくとも挺身隊で日本に来て脱走したというところまでは真実でしょう。

同女は工場を脱走した時にコバヤシという憲兵に捕まっているのですが、慰安所に入れられた後の会話で

 「そして私が不二越にいたことに気づいたようで『おまえは工場にいたのか?』と聞かれました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち)

とあり、連行された時には当該憲兵が、同女が挺身隊であったことを知らなかったことが分かります。そもそも、この憲兵の勘違いが原因ではないでしょうか(例えば、売春宿からの脱走者と思った等)。

また、証言には、憲兵に捕まった時の同女と憲兵とのやりとりが無く、何故、この憲兵が同女を慰安所へ送ろうと考えたのかは不明です。あくまで推測ですが、同女が工場に送り返されたくなかったが為に、自分がどこから来たのかを答えなかったことがこの憲兵の勘違いの一因になっているのではないでしょうか。

---------------------- 以下、2007.4.23追加 ------------------------
なお、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)を比べると以下通り内容に相違点が見られます。

<生まれた月>
○「写真」・・・1929年6月13日
○「証言」・・・1929年2月
→ 何故か異なっています。2月と6月なので旧暦と新暦の違いでもありません。

<挺身隊に行くことになった時期>
○「写真」・・・1943年秋で15歳(数え年)
○「証言」・・・1944年6月頃、16歳(※明記されていないが数え年)
→ 1年ずれて、年齢もそれに合わせてずれています。他の元・女子挺身隊の証言を見ると、1944年6月が正しいようです。本当に挺身隊だったのかも疑いたくなります。

<1回目の脱走の後>
○「写真」・・・「『模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか』と言われたものの罰は受けませんでした」
○「証言」・・・何度もぶたれた
→ 罰は受けなかったとしていたものが、何度もぶたれたことに変わっています。

<慰安所に入れられた後>
○「写真」・・・最初、同女を捕まえた兵隊の相手だけだったのが、3日後からは他の兵隊の相手もさせられた
○「証言」・・・3日後、同女を捕まえた憲兵の小林が来て、それから軍人たちが来るようになった
→ 慰安所に入れられてすぐに慰安行為を強いられていたのが、3日後から慰安行為を強いられるようになったことに変わっています。

<移動後の場所>
○「写真」・・・「マツヤマ」か「マツシロ」
○「証言」・・・思い出せない
→ 一方では、地名を覚えていて証言しているのに、一方では、思い出せないと言っています。「写真」では、わざわざ長野の「松代」(※戦時中、松代大本営があった)に行って証言をしています。
ただし、双方とも、「天皇陛下が来られる」という旨の記述があるので、やはり、本土決戦を想定して天皇移転を準備していた松代のようです。

-------------------- 以下、2007.6.27追加 --------------------
また、「写真」の69ページには、同女の写真と共に「市民たちが解体・保存している松代の『慰安婦の家」跡で座り込んでしまった。自分はここにいたのではないかと思ったからだという。」というコメントが載せられています。

しかし、この慰安所跡は以下の<ご参考>の通り、朝鮮人労務者向けの慰安所です。もし、そこにいたのなら、同女は主に朝鮮人労務者を相手にしていたことになり、そうすると、証言の中に朝鮮人労務者が一切出てこないのは、少なくとも正確なことを言っていないことになります。

-----------------<ご参考>-------------------------
<秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6>

「松代には西松組が七千人の朝鮮人労務者のために作った十五軒の慰安所があった」(日垣隆「松代大本営の真実」1944、136ページ、「週刊金曜日」97年2月14日号の馬場千奈津稿、NHK衛生第一TV「戦争・心の傷の記憶」98年8月14日放映) (P.188)


<松代大本営の保存をすすめる会編「新版 ガイドブック 松代大本営」新日本出版社2006.7>

「同年(注:1944年)11月ごろから、20歳前後と思われる4人の朝鮮人女性が、『親方』と呼ばれる朝鮮人の一家4人と、買い出し役をしていたらしい1人の下働きの男と一緒に住み込み、客に料理を出し、性の相手をさせられた。~(中略)~
 ここを利用したのは誰か。はっきりわかっていないが、日本の軍人たちは来ていなかったようである。崔小岩さんが「行ったことがない」と証言しているように、朝鮮人労務者も、過酷な労働の中で慰安所に出向くのは不可能と考えるのが妥当だろう。児沢さんの証言も合わせてみると、朝鮮人の中でも、現場の頭などをしていたような上層部の人たちが来ていたのではないかと考えられる。」(P.54~55) ※松代の慰安所跡の当時の様子等

「『慰安所』 児沢聡さんの証言 『~(前略)~次の日に詳しく聞いたら、そろそろ朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらしねように、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねてやるから貸してくんねかって言ってきたから~(後略)~』」(P.55) ※慰安所跡の家主の証言
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-------------------- 以上、2007.6.27追加 --------------------

---------------------- 以上、2007.4.23追加 ------------------------


-------------------- 以下、2007.6.17追加 ------------------------
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)で、秦郁彦氏は以下の通り、推理しています。

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 問題は上等兵らしき階級章をつけたコバヤシ憲兵の素性だが、この時期に富山地区憲兵隊(少佐以下20人前後)に勤務していた竹田安之憲兵軍曹、下徳浩令憲兵兵長は、(1)憲兵は他兵科から転科してくるので、上等兵はきわめて少数で、多くが下士官以上、兵は市内巡回などでは単独行動を許されていなかった。(2)一般兵と異なる憲兵の外観は、白地に赤文字の腕章をつけ、軍刀、ピストルを携行、長靴をはいていた。(3)憲兵隊には乗用車、トラックはなく、行動はサイドカー、自転車、乗馬によった。(4)不二越の近辺には遊郭があった、と回想している。
 二人とも心当りの事実はない、そういう氏名の憲兵はいなかったと断言するが、姜証言を素直に推理すると、コバヤシは遊郭と関わりのある業者で、軍服に似た国民服を着用していた可能性が高い。(P.187)
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-------------------- 以上、2007.6.17追加 ------------------------


【信憑性】

日本国内の慰安所に入れられたという証言は非常に怪しいものです。単に売春宿に入れられただけではないでしょうか。 2007.6.27削除

同女が本当に松代の慰安所跡にいたなら朝鮮人労務者のことが出てこないので、「もしかすると、一般の日本人や朝鮮人も含めて、『兵隊』もしくは『軍人』と言っているのではないか」という疑念が生じます。(ただし、「写真記録 破られた沈黙」では、「ここにいたのではないか」と可能性を示唆しているだけです。)
現時点では、判断は保留します。(2007.6.27追加)


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1929年6月13日生まれ 大韓民国ソウル市在住(P.58)

 高等科1年に通っていた時に、受け持ちの先生が家庭訪問で家に来ました。先生は「日本へ行くのは天皇陛下に忠義を尽くす道だ。白いご飯も食べられて、お金もくれるし勉強も続けられる。」と勧めたのです。私のクラスから2人が行くことになったのです。1943年の秋のことでした。(P.61)

 そして「不二越」に行ってから3~4ヵ月したある日、明け方に友達と逃げ出したのです。前に行ったことのある伏木の朝鮮人の家に行き、昼ご飯をもらいました。だけど、すぐに寄宿舎の舎監2人が来て、捕まってしまったのです。「模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか」と言われたものの罰は受けませんでした。(P.65)

 最初は、私を捕まえた兵隊の相手だけでしたが、3日後からは他の兵隊たちの相手もさせられるようになりました。兵隊は毎日やって来ました。1日に4~5人で、土曜日・日曜日には10人以上でした。ですから、土曜日はまるで死刑執行の日のように私には思われました。(P.67)

 それから何日かすると私を最初に犯した兵隊が来て、そこの部隊の兵隊と女たちを一緒に3台のトラックに乗せました。途中には右側に小高い山、左側には川か海が見えました
 着いたところは前よりも大きい部隊でした。まわりには畑が広がっていました。この部隊からは山が見えて、そのふもとには防空壕や村がありました。この防空壕は相当大きくて、この中でも兵隊の相手をさせられました。ここに来てから少しすると雪が降りました。(P.67)
 入れられた小屋には約20人の娘がいました。連れられてた小屋には約20人の娘がいました。連れて来られた私たち5~6人は、ここで生活することになりましたが、その女たちは他の所で暮らしているらしく、2~3日ごとにやって来ました。「慰安所」はここだけでなくて他にもあったようです。
 小屋は、建物の真ん中にある扉から出入りするようになっていました。中には5~6の部屋と食堂がありました。やって来たのは兵隊たちと、軍服は着ていたけれど階級章を付けていない者たちでした。
 私は女性たちの中で一番年下でした。私が「姉さん」と呼んでいた一番年上の女性に「ここはどこですか」と聞いてみました。そしたら「マツヤマ」だとか「マツシロ」とか言ったのです。
 兵隊の「小林」にも聞いたところ、口に手を当ててシィーと言いながら「ここは天皇陛下が来るところ」とか「避難に来るところ」と言いました。(P.68)

(※2007.4.23 追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二九年二月、慶尚南道普州の水晶洞で生まれました。父は早くに亡くなり、母が再婚したので私はほとんど母の実家で育ちました。母方の暮らしはまあまあ裕福な方でした。(P286)

 一六歳になった一九四四年六月頃、女子勤労挺身隊一期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科1年生のときです。高等科一年の日本の担任の先生が家庭訪問に来て、挺身隊に出るように言われました。勉強もできるしお金にもなるという話でした。先生が帰った後、私にだめだと言って母が泣いたりわめいたりして大変でしたが、私は行くことにしました。私のクラスから級長と私の二人が行きました。級長だった友だちはクラスで一番勉強ができ、家も金持ちでした。(P.287)

 不二越工場に到着してから二ヵ月ほど経った頃、お腹がすいて明け方に逃げだしたことがあります。以前行ったことのある新湊の朝鮮人の家に班長の友だちと一緒に逃げました。その家に隠れていたのですが、どうしてわかったのか寄宿舎から捕まえに来ました。工場に引っ張って行かれ何度もぶたれました。模範を見せなければならないおまえたちがこんなことをして、と怒鳴りつけられました。(P.291)

 工場からいくらも離れていない所でうろうろ迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。友達とは死んでも手を離さないで行こうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。私を捕まえたのは赤地に三つ星の階級章をつけた憲兵でした。~(中略)~再び車に乗ってある部隊に到着しました。部隊の横に見張りが二人立っていました。その部隊の後ろにテントのような家があり、しばらくここにいろと言われました。そこにはすでに五人の女性がいましたが、彼女たちは何も言わずにただ私を見るだけでした。(P.292)

 そこにしばらくいてから部隊が移動しました。高級タクシーのように車体の長い国防色の自動車一台とトラック三台に分乗し、女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。
 二度目の場所には丸一日もかからず着いたようでした。車に乗って移動するとき片側にはずっと海が見えていて、反対側には山がありました。到着すると近くに池のような川のようなものがあり、大部分は畑でしたが周囲は森のように木が繋がっていました。雪がたくさん降っていました。部隊はとても広く、平べったくて屋根の平らな建物が何ヵ所かありました。前のところとは違って民家もかなりありました。(P.294)

私はポクスン姉さんに、ここから富山県まで遠いのか、ここはどこなのか聞きました。ポクスン姉さんは富山は知らないと言いました。私たちがいた地名を聞いた気もしますが、思い出せません。(P.295)
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1944年6月頃、女子勤労挺身隊1期生として日本へ渡る。日本人の担任の先生が家庭訪問し、挺身隊員となるよう言いに来たのである。勉強もでき、お金も稼げると付け加えた。~(中略)~ハルモニは、そこから2度逃亡を試みた。最初に見つかったときは、工場に連れ戻され、ひどく殴られたという。2度目に逃亡を試みた際には、憲兵につかまってしまい、そのままトラックに乗せられた。ハルモニをつかまえた憲兵は、移動中の山中でハルモニを強姦した。それから部隊へと連れていき、その裏側にあるテントのような家にとどまるよう命令した。そこにはすでに、5人ほどの女性がいた。一つずつ仕切られた狭い空間で、1日に10人ほどの軍人の相手をしなければならなかった。(P.140)

(管理人注:ハルモニ・・・韓国語でおばあさんという意味)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


◆◆◆ 呉五穆(オ・オモク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年全羅北道井邑の貧しい家の長女に生まれる。1937年満16歳の時、同村の金という男に紡績工場に就職させてやると言われ、友人とついて行く。満州で慰安婦を強いられ、その後、部隊と共に移動し南京で終戦を迎える。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。同村の金に引率され、満州で日本人に引渡される。


【考察】

証言内容には特に不審点は見当たりません。


【信憑性】

信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 満十六歳になった一九三七年の頃でした。両親はいい人がいれば私をお嫁に行かせたいと言いました。こうしたある日、井邑に住む金という男の人が私に「紡績工場に就職させてあげる。いっしょに行く友達がいれば言いなさい」と言いました。~(中略)~それで、私はお金を稼ごうと思い、その頃家によく遊びにきていたオクヒといっしょについて行きました。~(中略)~オクヒといっしょに金について井邑駅に行ってみると、三人の女の子がいました。~(中略)~再び汽車に乗って三、四日かかって満州で降りました。奉天付近で私たちが金に「工場に行くと言ったのに話しが違うのではないか」と言うと、金は「言う通りにしろ」と言いながら、私たちを日本人に引き渡すと姿を消してしまいました。その後は、日本人のあとについて、さらに北の方に向かいました。満州の果てだと言っていましたが、正確な地名はわかりません。(P.96)

 井邑からいっしょに行った私たち五人は、ここから日本軍部周辺のテント村に入って行きました。~(中略)~
 私は最初は軍人に食事を運ぶ仕事をしながら、一般の兵隊たちの相手をしなければなりませんでした。慰安所の管理人たちのなかには日本人も朝鮮人もいました。彼らが女たちに「誰それは今日どこそこへ行け」と命令すれば、女たちは部隊内に呼ばれて入って行き、一日に五、六人、多いときは十人くらいの軍人たちの相手をさせられました。(P.97)
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