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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 文必ギ[王+基](ムン・ピルギ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1925年慶尚南道生まれ。家はさほど苦しくはなかった。1943年18歳の時、勉強もできるし、金儲けもできるという男の言葉に騙されて、満州で3年間、慰安婦生活を強いられる。

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家の近くのトラックに乗せられる場所には日本人巡査が来ており、釜山駅からは軍用列車に乗り、以降は日本の軍人達が慰安所まで引率。


【考察】

同女の証言は、以下の通り「従軍慰安婦」を意識し過ぎた内容になっていて、私は逆に胡散臭さを感じます。以下、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」に記載されている証言。

○「日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。(P.119)」
  ・・・騙したのはあくまで日本人の手先 

○「そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。(P.119)」(※「そこ」とは、同女を連行する為のトラックが停められていた場所)
  ・・・日本の公権力の関与を匂わす記述

○「私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。(P.120)」
  ・・・日本の軍人たちが引率

○「慰安所にいた朝鮮人男性が、女を連れて来いという日本の軍人の依頼を受けて、故郷に行ってキヨコを騙して連れて来たのだと言っていました。(P.121)」
  ・・・主犯格が日本の軍人であったことを明示

○「慰安所から近い部隊に所属する軍人たちが交替で派遣されて歩哨に立ちました。(P.121)」
○「歩哨兵がいつも私たちをいつも監視していました。(P.126)」
  ・・・ここでも軍の関与を示唆。慰安所に歩哨を置いて監視する程、暇ではないと思うのですが

○「軍人は全員日本人です。もし、朝鮮人が入って来たなら思いっきり泣きつくこともできたでしょうが、三年間、朝鮮人の軍人は一人も見ることがありませんでした。ほかの「慰安婦」の中には朝鮮人を見たと言っていた人もいました。(P.123)」
  ・・・女性を性奴隷として扱うのは日本人だけで、朝鮮人はいてもホンのわずかと言うことでしょうか

以上、恣意的な感じ(※あくまで「感じ」)がする記述が多数見受けられます。
また、同女は

 「慰安所に送られて三年目の二十歳のとき終戦を迎えました。(P.127)」

と、「終戦」という言葉を使用しています。8月15日は日本人にとっては終戦記念日でも、韓国人にとっては植民地支配から解放された「光復節」です。他の元・従軍慰安婦の方々も「終戦」ではなく「解放」という言葉を使用しています。
裏に日本人のゴーストライターがいたのではと疑いたくなります。


【信憑性】

このパターンの証言をする人は、複数の証言を突き合わせると必ずと言っていいほどボロが出てくるものですが、現在、突き合せるべき資料がない為、現段階では信憑性の判断は保留します。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
普陽郡の私の村には、日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。私は勉強ができないことをとても恨めしく思っていたので、勉強できるという言葉に引かれて承諾しました。~(中略)~私が満十八歳になった一九四三年秋のことです。~(中略)~数日後の夕刻、再びその男が家に来て、ちょっと用があるから出て来いと言うので、両親には何も言わずに家を出ました。すると、家から少し離れた場所にトラックが停められていました。そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。その二人が私をトラックに乗せて釜山に連れて行きました。~(中略)~食堂で朝食をとったあと、他の四人の女たちと一緒に釜山駅を出発しました。私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。~(中略)~汽車に一緒に乗って行った私たちは全員、満州にあった軍慰安所に配属されました。(P.119~120)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


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◆◆◆ 文玉珠(ムン・オクチュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.4.3大邱(テグ)生まれ。9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。暮らし向きは楽ではなかった。1940年16歳の時、帰宅途中に軍服を着た日本人に連行され、満州にて慰安婦生活を強いられる。約1年後、将校を騙して朝鮮に帰る。1942年、女中をしている時に友人から「食堂で働かないか」と誘われ、1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて26,145円の貯蓄をし、また、別途、5,000円を実家に送金。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」その他より)

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1992年に日本の郵便局を相手に26,145円の貯金返還の訴訟を起こす。2003年3月最高裁上告棄却により敗訴確定。(戦時郵便貯金の払い戻し訴訟(別名:下関裁判))
1996.10.26死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

満州の慰安所に行った際は、帰宅途中に軍服を着た日本人に憲兵隊の事務室に連れて行かれ、翌日、普通の服を着た日本人と朝鮮人の男に引渡され、満州まで連れて行かれる。また、ビルマに行く際は朝鮮人の男女に引率され軍用船を使用。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

同女が慰安婦として3年弱の間に貯めた金額は、実家への送金分も含めると、31,135円。(※利息は含まず)
当時の大卒の初任給が100円から150円、陸軍参謀の年棒が6600円ですので、現在の貨幣価値に直すと、単純計算でも6千万円は超えます。(※現在の初任給を20万円として2000倍した)
当該軍事郵便貯金については、日本の敗戦と共に失効したものと勘違いしていて、その後、通帳もなくしてしまったようです。さらに、1965年の日韓基本条約に基づき、韓国は、1975年7月から2年間、貯金通帳など有価証券の支払いを受け付けていますが、これも知らなかったようです。なお、貯金原簿については 熊本貯金事務センターにて存在が確認されています。

金学順(キム・ハクスン)さんと同じく「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」で強制連行されたことに証言が変更されています。具体的に言うと、1942年にビルマに行く前に、「1940年に『軍服を着た日本人』に連行されて満州で慰安所に入れられ、日本人将校を騙して故郷まで帰ってきた」というエピソードが追加され、軍人に連行されたことになっています。
また、ビルマへ向かう際も、「釜山港から船に乗りました。船は軍用船六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いっぱいだったように思います」と、他にもたくさん女性達がいて軍の関与を暗示する記述が加わっています。
ただし、金学順(キム・ハクスン)さんとは違い、次の通り、証言を変更した理由も記載されています。

「昨年、若い頃検番で知り合った李さんのすすめで、はじめてこの事実を申告した時にも、中国の話は明らかにしませんでした。その時は、はずかしいことをみんな話そうかどうしようかと迷って、南方へ行った話だけしました。けれども、私の話がみんな知られてしまった今、何をかくす必要があるかと思って、思い出すまま全部を話しました。今、すべてを話し終わって胸がすっとしました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(P.179)

この言い訳を信じるか否かですが、強制連行の部分のみが都合よく、そっくり抜け落ちていたことには疑いの目を向けざるを得ません。

さらに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(以下「文玉」)になると、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)とまた内容が下記の通り異なってきます。

13歳の時、満州に行く前に福岡県大牟田で働いているのですが、そこは
 ○「証言」・・・遠い親戚で古物商
 ○「文玉」・・・親戚という記述はなく、売春宿
その家を逃げ出した理由が
 ○「証言」・・・約束した学校に行かせず、毎日、家の手伝いばかりさせていたから
 ○「文玉」・・・学校に行かせるというのはウソで、大きくなったら身売りさせられると分かったから

朝鮮に帰った後、16歳の時、満州の慰安所に行くことになったきっかけは
 ○「証言」・・・憲兵隊と思われる軍服を着た日本人に突然、路上で連れて行かれる
 ○「文玉」・・・日本人の憲兵と朝鮮人の憲兵と朝鮮人の刑事に突然、路上で連れて行かれる
→連行したのが1人から3人に増えています。

連行後、駅で引渡された相手が
 ○「証言」・・・普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男
 ○「文玉」・・・日本人憲兵と朝鮮人刑事
→一般人から憲兵と刑事に変わっています

満州で慰安所に入れられた際
 ○「証言」・・・女の人達に聞いて初めてそこが慰安所であることが分かる
 ○「文玉」・・・大牟田で働いていた時の経験ですぐに売春宿だと分かる

満州から逃げ帰る際、母が病気で死にそうだからと騙して証明書を発行してもらう相手が
 ○「証言」・・・主計将校(物品を管理する将校)
 ○「文玉」・・・憲兵

帰郷後、18歳の時、ビルマの慰安所に入るきっかけになったのが
 ○「証言」・・・偶然知り合った友達の誘い
 ○「文玉」・・・満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘い
→「文玉」では、なぜか、満州の慰安所にいたヒトミとキファまでもが朝鮮に帰ってきています。さらに、ビルマに行く途中で同じく満州の慰安所にいたアキミとヒフミにも再会しています。奇妙にも、満州時代の友達が4人もせいぞろいし、しかも、ビルマの同じ慰安所に入れられることなります。
なお、「証言」では、途中で出会ったのは満州の慰安所にいた金ケファのみになっています。(金ケファは、「文玉」で食堂で働こうと誘ったキファと同一か?)

釜山港から船に乗るのですが
 ○「証言」・・・同じにような女が3、400人超える程だった
 ○「文玉」・・・同じような女が150~200人ほど港に集まった
→同じような女が半分に減っています。

「文玉」では、満州の慰安所で働いていた4人の友達が偶然、ビルマの同じ慰安所で働いたことになっており、この偶然はあまりにも出来すぎでしょう。しかも、友達と偶然の再会を果たした場所から彼女らを引率したマツモトという朝鮮人はビルマの慰安所の主人でもあり、顔見知りだったと記述されています。おそらく、満州から朝鮮への帰郷はなく、単に満州からビルマへとマツモトという慰安所経営者に引き連れられて移動しただけでしょう。
また、日本で働いていた場所が売春宿だったことを考えると、「朝鮮→強制連行→満州の慰安所」もさらに疑わしいものになります。

これら一連の変更を考慮して実際、どうだったのかを推理してみると

 1)日本の売春宿で働いていた
 2)身売りを強要され拒否したから、または、その他の理由で満州の慰安所に売られた
 3)満州の慰安所からビルマの慰安所に移った

と言うところではないでしょうか。


なお、「裁判の訴状」では、

「毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された」

と、揚げ高の半額を給料として受け取ったと証言しているのに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」では

「マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった。」

と、慰安所経営者の松本は給料をくれずに、ストライキをした時だけ1円、2円もらえたと証言しています。
元・慰安婦の「お金は一円ももらってません」という証言はよく耳にしますが、それが如何にいい加減なものかが良く分かります。


【信憑性】

同女の証言の強制連行の部分については信憑性がないと言えるでしょう。

なお、蛇足ですが、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」を読んでみると、同女が聡明な方で、死と隣り合わせに戦っていた兵士達がまさに慰安されていたことが分かります。多くの貯金をためることが出来たのも、この方がそれだけ「チップをあげたい」「便宜を図ってあげたい」と思わせる方だったからでしょう。
全くお話しにならない元・従軍慰安婦の方がいるのも事実ですが、ウソつき呼ばわりして単に否定したり、やたら被害者であることを強調したりするだけでなく、時には、我々のおじいさん、ひいおじいさん達が戦場で、慰安婦の方々に慰め勇気付けられていたという事実に思いを馳せてみることも必要でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
貧しい人だけが行く私立の夜間学校に三年間行ったところで、お金がなく中退せざるを得なかった。その後、朝鮮人や日本人の家の女中に行き、洗濯や掃除をした。五年くらい女中をしてから、家の近くの靴下の家内工場で二~三年間働いた。その後しばらく家にいた。当時は仕事があまりなく、失業をしていたのである。そんな時に、文玉珠は少し顔を知っていた男から「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」という話を聞かされた。その男は大邱に住んでいる朝鮮人だが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていた。その男の姓は宋(ソン)で、日本名は松本と言った。
どこへ行くのか聞いたら、はっきりと教えてくれなかったが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思った。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせるというので、文玉珠は生活が苦しいので、やむなく行くことにした。
二十日後に出発することになった。家族に知られたら叱られて行かせてもらえないので、誰にも知らせないまま家を出た。従って、家からは何も持ち出せなかった。出発前にはお金は貰えず、着いてから必要なものは何でもくれるということをきかされた。
一九四二年七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山に出発した。~(中略)~

慰安所受付で、兵隊は料金と引き替えに慰安所切符を受け取り、部屋に入り文玉珠らに渡していた。毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された。しかし、このなかからご飯のおかずや服やたばこを自分で買い、つらい時は、酒も飲んだので、みんな生活費になってしまった。貯金した一万五千円のお金は、兵隊からのチップであった。慰安所のある所には、「野戦郵便局」があり、兵隊が利用していた。一般の人は利用できなかった。慰安婦は軍属扱いであったので、文玉珠もここに貯金していた。自分で行ったり、兵隊に頼んだりした。~(後略)~
1992.5.22 毎日新聞 ***** ****
一九四三年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。
1992.8.10 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から「ちょっと遠い所だが、食堂で働けばお金が儲かる」という話があったんです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。~(中略)~その男の姓は「宋(ソン)」で、日本名は「松本」と言いました。年は四〇歳くらいでした。(P.80)
一九四二年の七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山(プサン)に出発しました。(P.81)

(※2007.4.6追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から、「ちょっと遠い所だが食堂で働けばお金がもうかる」という話があったのです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。その頃は、こんな服装をしているのは刑事などの限られた職業の人だけだったのです。その男の姓は「宋」で、日本名は「松本」と言いました。年は40歳くらいで、日本語も上手でした。
 どこへ行くのか聞いたら、はっきり教えてはくれませんでしたが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思いました。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせる」と言うので行くことにしたのです。家族に知られたら反対されるので、誰にも知らせないまま家を出ました。(P.26)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十三歳になった頃でした。父方か母方かはよくわかりませんが、日本に住んでいた遠い親戚がうちの田舎に訪ねて来ました。その時、その人たちは母に、お使いでもさせながら、本当の娘のように学校にもやり、いい人をみつけてお嫁にも行かせるから、私を日本に連れて行かせてほしいと頼みました。勉強させてやれないことにいつも心を痛めていた母は、二言もなく承諾し、私も勉強できると思って、その親戚について日本に向かいました。親戚の家は福岡の大牟田にあり、大勢の人夫を使って古物商をしていました。~(中略)~長い髪を切られて悲しんでいる私の気持ちなど知らんぷりで、約束した学校には行かせず、毎日、台所の洗いもの、洗濯、掃除や、自分の子どもの世話ばかり見させようとしました。六ヵ月ほどこうして過ごしましたが、しまいにはなぜ私がこうしていなければならないのか、腹立たしくなりました。それで、私は古物商の人たちのお使いをして、もらったお金を貯めはじめました。そうして、その人たちに家に帰る方法を聞いておき、だまってその家を出てしまいました。(P.160~161)

 一九四〇年
、私は、満十六歳になりました。この年の秋の暮れ頃でした。~(中略)~ハルコ(※日本名を使っている朝鮮人の友達(管理人注))の家を出て自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。彼は、突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。そこには、私と同じ年頃の女の子が一人先に来ていました。~(中略)~次の朝になると、軍服を着た日本人は、私たちを外へ連れ出しました。彼は私たちを駅前に連れて行って、普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男に渡しました。~(中略)~私たちは当時の中国東北部、逃安城というところで汽車を降りました。~(中略)~
 先に来ていた女たちは二十人ほどでした。私は「こんなところになぜ女の人たちがたくさんいるのだろう」といぶかしく思いながらも、疲れていたので、その日は何も考えずに寝てしまいました。次の日、私は女の人たちに「ここは何をするところなの」と聞きました。すると、誰かが、「あんたたち、お金をもらって来たんじゃないの?」と聞き返しました。私が「いいえ、捕まえられて来たの」というと、その人は「ここは慰安所で、軍人たちがお客に来るところなのよ」と言いました。私が「軍人が来るからといって、私たちとどう関係あるの」と言うと、その人はひどく困ったように「軍人たちが寝ることところなのよ」と言いました。その人たちの説明や、くやしそうなようすをみても、私には、軍人が寝ることと自分がどう関係があるのか理解できませんでした。(P.162~164)

 いっしょにいた人の中では、金ケファと、大邱からいっしょに来たフミコの名を覚えています。慰安婦生活をほとんど五年から十年もしているという人もたくさんいました。私は憲兵に捕まる前から「フミハラ(文原)」という姓を使っていましたが、その頃有名だった映画を見て、そこに出てくる女優の名をとって「ナミコ」と名をつけました。(P165)

 来てからちょうど一年ばかりたった九月でした。主計将校が私に、慰安所の外で所帯をもっていっしょに暮らそうと言いだしました。そこで私は彼に、「私が連れて来られた時、母が病気で死にそうでした。だから、あなたといっしょに暮らす前に、まず朝鮮に行かせて下さい。行ってきたら、きっといっしょになります」と言いました。そんなことを言って哀願する私に、彼は、本当に帰って来るねと何度も念を押しながら朝鮮に往復できる証明書を出してくれました。(P.166)

 大明洞の近所に、偶然知りあった友人が一人いました。一九四二年七月はじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。次の日、私は家族にもだまってそっと家を出て、その友人といっしょに釜山行きの列車に身を託しました。私は何としてもお金をもうけて、私たちのために苦労している母を助けてあげたかったのです。
 釜山に着くと、駅前には二人の男女が待っていました。二人とも朝鮮人でしたが、男は松本といって、後でわかったことですが、私たちを管理する人でした。そして、女の方は私たちと同じ慰安婦で、ただその男について出てきたようです。この二人は、まごまごしている私たちをある旅館に連れて行きました。そこには、すでに十五、六人の女たちが来ていました。ここで、私は満州でいっしょに過ごした金ケファと再会しました。私は一方でうれしく思いながらも、本当にびっくりしました。~(中略)~
 私たち十八人は、一九四二年七月十日、釜山港から船に乗りました。船は軍用船で、六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いったいだったように思います。~(中略)~
 私たちは紆余曲折のあげく、台湾、シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)に到着しました。(P.167~168)

 私は創始改名による姓の「文原」をそのまま使い、名前は「ヨシコ」とつけました。マンダレー以来、私は物品を管理しているホンダ・ミネオと次第に親しくなりました。(P.171)

 そこで、私はまた軍部隊に行って、母親が亡くなったので葬式の費用に金を送りたいと頼み、いくらかのお金を家に送りました。私の通帳にはそれでもまだお金がかなりたくさんありましたが、ビルマのどこかで通帳をなくしてしまいました。その当時、お金を送る時に、ある軍人が全額送れと言いましたが、私も将来故郷に帰ったら生活が苦しいだろうからと思って、とっておいたお金でした。
 お金の話が出たので、お話しすることですが、私はお金を貯めるために本当に努力しました。アキヤブにいた時、将校たちは、日本語もうまいし歌も上手だといって私をほめてくれました。そして、誕生日のパーティーや送別会をする時には朝鮮人の中では文原ヨシコのほかにはいないといって、日本人慰安婦といっしょに私をよんでくれました。そうすると、私たちは決められた場所に行ってお酒のお酌もし、踊りを踊ったり、歌を歌ったりするのですが、一週間に二、三度はそんなことがあって、その度によばれて行きました。上手に相手をつとめると彼らはチップをはずんでくれるので、私はこの金を使わずに貯金しました。
 私はそれほど可愛い方ではありませんでしたが、「とてもきれいだ」といった馴染みの将校たちが、時々、私の部屋にやってきて泊まって行き、彼らが来ると兵士たちは入って来ませんでした。この時将校たちにもらった金も使わずに貯めました。こうして貯めたお金の他にも、酒やたばこもただでもらうことが多かったので、私はお金ができると、少しずつ野戦郵便局に貯蓄しました。そしてその後もお金ができれば、通帳に積み立てておいたのです。(P.175~176)
1996.2 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 森川万智子 梨の木舎
 わたしは十二歳になっていた。
 そのころ、日本の九州大牟田で料理屋をしているという夫婦が訪ねてきた。その主人は六十歳くらい、妻は四十歳くらいだったと思う。
 「商売が繁盛していて人手が足りない。子供たち二人が放りっぱなしなので、子守をしてもらえないだろうか。きてくれるのだったら学校にもやってやろう、ゆくゆくは自分の家から立派に嫁にもだしてやろう」といった。~(中略)~
 店はなるほど繁盛していた。わたしは突然、朝から晩まで騒然としている調理場に放りこまれた。学校に行かせてもらえるどころか、毎日、子守、掃除、洗濯。それから一日中、薪を燃やしている竈の火の番、使い走りといった用事をいいつけられた。とにかくじっとしている暇はなく、なんとも忙しいところだった。
 「大牟田市中島町釜山館」
 忘れられない住所と屋号だ。中島町というのは男たちが遊ぶ街だった。釜山館は「乙種料理屋」といっていたが、売春宿だった。(P.19~21)

 大牟田には五、六ヵ月もいただろうか。大牟田で十三歳の誕生日がきたのを憶えているが、それほど長くはいなかった。というのは、「学校に行かしてやる、お嫁にもだしてやる」という主人の言葉は真っ赤なうそで、何年か釜山館の下働きをして体が大きくなったら、わたしも身を売らなければならなくなるということがわかったからだった。(P23)

 わたしはそのとき十六歳になっていた。~(中略)~夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。わたしは怖くて声も出ない。後をついていった。なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。~(中略)~連れて行かれたのは憲兵の詰め所だった。そこには少女が一人いた。~(中略)~翌朝、わたしと少女は大邱駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引渡された。(P.28~29)

 連れていかれた家は大きな民家で、部屋がたくさんあった。「グンポール」という名がついていた。二十人ほどの朝鮮人の若い女たちがいた。そのうちの三人ほどは赤色や桃色の派手な日本の着物を着ていた。わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。(P.30)

 女たちはみんな大邱から引っ張られてきていた。名前はヒフミ、カナリヤ、キミコ、ハツコ、ヒトミ、キファ、アキミ、ヒロコなどといった。日本の名前をつけろと主人にいわれ、わたしは、そのころ流行った映画『不如帰(ほととぎす)』の主人公の武雄と波子にちなんで、ナミコに決めた。(P.31)

 わたしを特別に可愛がってくれている憲兵に頼んでみた。その憲兵が許可をだす権限をもっている、ということは知っていた。だから、わたしはずっと「憲兵さん、憲兵さん」といって、気に入ってもらえるように振る舞っていたのだ。
 「母が病気だから大邱に戻って看病したいのです。かならず戻ってくるから、汽車の切符を買うための証明書を書いてください。」
 憲兵は証明書を出してくれた。主人にも「かならず帰ってくるから、おねがいです」となんどもいって慰安所を出してもらった。
 一緒に釜山行きの汽車に乗ったのは、肺病になって働けなくなった二人と、仮病を使ったもう一人と、わたしの四人。友達の名前は憶えていない。(P.36~37)

 わたしは十八歳。若かった。「日本軍の食堂に働きに行こうよ。金もうけできるよ。」とわたしを誘いにきたのは、ヒトミとキファの姉妹だった。トアンショウのグンポールで働いていたときの友達で、そのときは近所に住んでいた。~(中略)~
 二日後、母にはいわず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるに決まっている。荷物は着替えを二、三枚とタオルを入れた小さな手提げ袋だけだった。金も少ししか持っていなかった。
 指定された甲乙旅館という名の旅館に行って、わたしはびっくり仰天した。アキミが、ヒフミがいる。トアンショウで一緒だった友達がそこにきている。わたしたちは奇遇を喜んで、「まあ、どうしたの、あなたも南の国にいくの、一緒でよかったね」といい合った。きょうはここで一晩泊まるのだ、といわれた。そこには、マツモトという朝鮮人の男と、六十歳をすぎた朝鮮人の男と、その甥がいた。この男たちがわたしたちを引率したのだった。マツモトは顔見知りの男だった。~(中略)~
 マツモトに引率されて軍専用の岸壁にいった。そこには百五十人から二百人ほどの娘たちが集まっていた。(P.45~46)

 「だまされてきたんだなあ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ。」娘たちは天地がひっくりかえるほど仰天した。ピー屋が何をするところか、知らない娘もたくさんいる。でも、わたしは少し違った。驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうかと、と妙に納得したのを憶えている。(P.56)

 マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった
 わたしの手もとには、少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。(P.75)

 またつらいことが起きた。トアンショウでも一緒だった二つ年上のアキミが血を吐いたのだ。(P.82)

 同じ組の六人、つまりヒトミとキファ姉妹、ツバメ、ヒロコ、ヒフミ、そしてわたしで、なんとか故郷に帰る方法はないかと考えた。(P.114)

 アユタヤの病院にいたときには、母に送金もした。
 ラングーンで受け取っていた母からの電報を将校にみせて、「母の葬式に金がいるから、お金を送りたい」というと、許可がでた。貯金からおろして五千円を送金した。係の兵隊にたのむと、「貯金があるのなら、ぜんぶ送ったほうがいい」といった。わたしは、「あとのお金は、朝鮮に帰ってからおろすからいいです」と答えて送らなかった。届くかどうか心配だったし、せっかく貯めた貯金がなくなるのも心細かった。(P.137~138)


◆◆◆ 黄錦周(ファン・クムジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年、忠清南道扶餘に生まれる。1941年20歳の時、日本人の班長に「日本の軍需工場に行けば金が儲かる、一家で少なくとも1人は行かなくてはならない」と言われて奉公先の娘たちに代わって志願し、以降、吉林の慰安所で慰安婦を強いられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

集合場所の駅で日本の軍人に引渡され、軍用列車にて満州の吉林に行く。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

下記資料の通り、連行された年でさえ14歳~20歳と、数え年と言うものを考慮してもフォローするのは不可能。

1992年の「従軍慰安婦と戦後補償」では「ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました」はずが、1993年の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、夜学に通って休学していた情報が加わり、しかも、養父である崔(チェ)という人の妾の家と本妻の家の二つでのみで女中していたことになっています。
さらに、最初、崔(チェ)さんの妾の家で女中をしていましたが、妾と折り合いが合わずに本妻の家に変えてもらいます。そこで、単に本妻の家に連れて行ってくれただけの人に、最初に養女になった時と同額の100円を渡して借金が200円になるというおかしな状況を披露しています。
おそらく売られた数を減らしたかったのでしょう。しかし、中途半端に取り繕った為に矛盾が生じています。

また、夜学は休学中だったはずが、2001年のTBSのTV放送では、「学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ」と発言して、休学していなかったどころか卒業間際だったことに変更になっています。

自らの過去を願望を交えて変更し、全ての不幸を日本軍のせいにして「虚構の過去」が築きあげられていく過程をまざまざと見せ付けられているようです。


なお、1997.3.11の産経新聞では以下の通り証言の食い違いが指摘されています。
生まれた年 慰安婦にされた年
朝日新聞の記事(1995.7.24夕刊) 1922年 17歳(1938年か1939年)
伊藤孝司氏編著 「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」(風媒社、1992.8) 1927年 シンガポール陥落の年
(1942年)

------------- 以下、2007.4.22追加 ------------
上記、産経新聞には記載されていませんが「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」の記述によると同女が慰安婦をしていた期間は以下の通り約「15ヵ月」になり、「1942年4月」に騙されて慰安婦になったという記述と全く一致していません。(※3年4ヶ月にならなければおかしい))

  吉林省(約8ヶ月) → サハリン(2、3ヶ月) → 吉林省(3、4ヶ月) → 終戦



また、下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の通り内容が異なっています。

<生まれた年>
○「写真」・・・1927年8月15日
○「証言」・・・1922年8月15日
→ 5年も生年が変更されるなどありえないでしょう。

<父が留学した大学>
○「写真」・・・明治大学
○「証言」・・・「日本に留学」としか記述されていない
→ 具体的な大学名を出すとウソがばれるからやめたのでしょうか。

<日本で父がしていた仕事>
○「写真」・・・大学卒業後、日本で司法の代書をしていた
○「証言」・・・靴磨きや新聞配達をしながら苦学。留学が終わろうとする頃、病気になり故郷に戻って伯父の司法書士事務所で仕事の手伝い
→ 大学を卒業して働いていたのが、卒業前に故郷に戻ってきて、しかも、日本でしていた仕事を朝鮮で行っていたことに変更されています。

<金持ちの養女となった歳>
○「写真」・・・12歳(明記されていませんが、計算すると1939年頃)
○「証言」・・・13歳(1934年)
→ 12歳と13歳の違いは、満年齢と数え年の違いでしょうが、生年に合わせて1934年のことになっています。

<工場に行くことになった歳>
○「写真」・・・1942年4月
○「証言」・・・1941年陰暦2月・20歳
→ 何故か1年だけ、慰安婦になった年が早まっています。

<吉林省から移動した場所>
○「写真」・・・「サハリンだったと思います」
○「証言」・・・「どこだったかわかりません」
→ 全く不明になっています。

<慰安婦生活をした期間>
○「写真」
  ・・・吉林省(約8ヶ月)  → サハリン(2、3ヶ月)  → 吉林省(3、4ヶ月)  → 終戦
○「証言」
  ・・・吉林省(期間不明) → 不明地(8、9ヶ月) → 吉林省(しばらくして) → 終戦
→ 慰安婦になった年も変更になったのですから、当然のことながら一致しません。「証言」では吉林省にいた期間が明記されていません。ヘタに細かく書くと矛盾がばれてしまいますから、賢いやり方と言えます。

------------- 以上、2007.4.22追加 ------------


【信憑性】

証言の信憑性は全くありません。
「吉林の慰安所で働かされた」と言う証言は一貫していますので、吉林で働いていたというのは本当でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 十七歳のときです。工場で働けるといわれ、トラックに乗せられました。汽車に乗ったら、どうもようすがおかしいのです。両方の扉は塞がれ、外が見えないようにと窓は油紙みたいなもので全部おおわれていました。着いたところが、満州の吉林でした。着くと、おおきなトラックがきて、十五名、二十名と分けられ、運ばれていきました。
 西も東もわからないところに連れていかれ、カーテンで仕切られた部屋に入れられました。最初に入ってきたのは、将校でした。将校は、顔の美しい女だけをどこかへ連れていきました。
 私はいなか育ちで日本語もよくわからず、着物を脱げといわれていることがわからないので黙っていると、その将校は日本刀で私の服を切って裸にしました。
「助けて!助けて!」と懇願しました。
「天皇陛下の命令だ!軍隊の命令だ!私の命令だ!命令をきかないと殺されるぞ」
 わびてわびて・・・・・・そのうちにこわくて気絶してしまいました。その私を、自分の宿舎に連れていっておもうままにしました。この後は話せません・・・・・・。
 私は処女でしたから、初めてのことで、犯されて気が遠くなっていると、将校は部下に、「もとの部屋に連れていけ」と命じました。
 そのうちに私は、淋病、梅毒にかかり、六〇六号の注射を打たれました。妊娠したことも、自分ではわかりません。六〇六号は劇薬なので、妊娠していても流産してしまいます。性病にかかると痛くて、そのうえ顔や全身が腫れます。そうすると、そういう女たちを別の部屋に隔離してしばらくそこで治療します。少しよくなると、また、兵隊の相手をさせるのです。三回ぐらいそれを繰り返していた女は、そのうちにいなくなりました。行方不明です。死んだり、病気になったり、前線に連れていかれて女がいなくなると、また新しい娘たちが補充されてきました。
 一日に五十人から六十人の兵隊の相手をして、休みの日には、七十人から八十人の相手をして、あげくのはてに性病になり、血や膿がでるようになりました。痛くてどうにもならないというと、私たちは犬畜生でもないのに、男の性器をなめろというのです。いやだというと、顔をひっぱたき、強制的に口に入れました。私は犬ではない!人間の娘です!
 そのうちに、部隊が移動することになり、サハリンに連れて行かれました。荷物みたいにです。それから二、三ヵ月たって、また、吉林に帰ってきました。身も心も傷つき、ずたずたになり三年がたちました。
 ある日、人の声がしないのでおかしいと思って外をみると、兵隊たちは誰もいません。水でもなんでもいいから飲みたいと思い、外に出ていくと、一人の兵隊がいました。
「きのう天皇陛下が敗戦を宣言したから、みんな逃げていったのだ。おまえたちも早く逃げないと殺される」
逃げ遅れた兵隊は、そういうとどこかへ去っていきました。(P.120~122)

(※2007.7.12追加)
1992.7 従軍慰安婦と戦後補償 高木健一 三一書房
一九二二年、忠清南道扶餘で生まれました。生家は貧しく、十二歳の時、一○○円で売られ、ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました数えで十七歳の時、女中をしていた咸鏡北道ハムン郡の金持ちの家に、工場供出の員数割り当てがきて、その家には十九歳と十五歳の娘がいたのですが、私が工場に行くことになったのです(P.47)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 一九二七年八月一五日生まれ~(中略)~
私は五歳の時に、ソウル(当時は「京城」)の知り合いのおばさんに引き取られていましたが、一二歳の時に、お父さんの薬を買うために、一〇〇円のお金をもらって、ソウルのあるお金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興(ハムン)にいました。だけど、養父はソウルで商売をしていて、そこに妾がいたんです。私はこちらの家に行きました。ここで二年間いましたが、あまりにも苦労をしたので、養父に別の所で働きたいと言ったんです。
それで、咸興の本妻の家に移る事になりました。そこには娘三人と息子二人がいました。娘は一九歳・一五歳・八歳でした。
ここでは学校に行かせてくれ、食べ物・着る物・寝る所は、そこの子どもたちとほとんど一緒でしたが、掃除・洗濯・炊事とお手伝いさんのように働いたんです。この咸興に三年間いました。
この家にも面(村)長から、工場の「募集」の話が来ました。これを断ると日本人に殴られたり、いろんな事をされたんです。だから、この家からも誰か一人は行かなくてはならなかったんです。
 一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「自分が行く」って言ったんです。
面長も日本人の指示で「募集」をやっていたから、私がどこへ連れて行かれるのか、知らなかったと思います。もし、私たちが「慰安婦」にさせられるという事がわかっていても、拒否はできなかったでしょう。
私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったんで、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったんです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と黒のチマ(朝鮮のスカート)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(一九四二年)の四月の事でした。(P.117~118)

私が連れて行かれて一ヵ月ちょっとした時に、私より少し年上だった女の人は、将校と激しい喧嘩をしたんです。殴られて何度も食らいついていき、失神しても気がついたらまた反抗したんです。そして、「兵隊の相手はしない」と言ったら、その裸の女は性器を拳銃で撃たれて殺されたんです。
「慰安所」の中での出来事だったので、みんなが見に行くと「あんまり言う事を聞かないとこうなるぞ」と、見せしめに女たちの前で撃ったんです。こんなひどい事を日本人がしたのを知ってますか。(P.124)

 この吉林省には8ヶ月くらいいてから、船に乗せられて違うう所へ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。~(中略)~ここに二、三ヵ月いました。
 それから、吉林省に戻ったんです。~(中略)~
 そこで三、四ヵ月して解放(日本敗戦)になったのです。(P.124~126)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は忠清南道扶餘で生まれました。お父さんは明治大学を卒業して、日本で司法の代書を仕事にしていました。~(中略)~
 私は5歳の時に、ソウル(当時は「京城」、以下同じ)の知り合いのおばさんに引き取られていましあ。12歳の時に、お父さんの薬を買うために100円のお金をもらって、ソウルの金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興はいました。だけど、養父は商売をしていたソウルに妾がいたのです。私はそこに2年間いましたが、あまりにも苦労したので咸興の本妻の家に移ることになりました。そこには娘3人と息子2人がいました。娘は19歳・15歳・8歳でした。
 この家にも、面(村)長から工場の「募集」話が来ました。これを断ると日本人に殴られたりいろんなことをされたのです。だから、この家からも誰か1人は行かなくてはならなかったのです。一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「私が行く」って言ったのです。
 私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったので、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったのです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、黒のチマ(スカートのような民族衣装)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(1942年)の4月のことでした。(P.9~10)

 この吉林省には8ヶ月くらいいて、船に乗せられて別のところへ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。トラックに数時間ゆられて日本軍の部隊に着きました。陸軍と違う色の軍服を着た部隊だったので海軍だと思います。吉林省よりも寒くて雪も多かったです。ここに2~3ヶ月間いて吉林省に戻りました。
 それから3~4ヶ月すると解放(日本敗戦)になったのです。(P.16)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二二年、陰暦の八月十五日に扶餘で生まれました。私が長女で、妹が一人、弟が一人いました。経済的には豊かではありませんでしたが、はソウルで中学を卒業した後、日本に留学しました。父よりも二十歳年上の伯父が水原で司法書士をしながら父の学費を援助しましたが、それだけでは足りなかったので、父は靴磨きや新聞配達などをして苦学したそうです。ところが留学も終わろうとする頃、父は病気になりました。故郷に戻り水原の伯父の司法書士事務所で仕事の手伝いをしましたが、病気は悪くなる一方でした。~(中略)~
 私は崔さんに父のことを話しました。その人は、父親は大事にしなさいと言いながら百円をくれました。その代償に、私は崔さんの養女となり、ソウルにいる崔さんの妾の家で手伝いをすることになったのです。~(中略)~私が十三歳の時(1934年)のことでした。(P.104)

 崔さんの妾は意地悪でしょっちゅう殴るので、私はひどく苦労しました。二年間そこで暮らしましたが、養父である崔さんにそのことを訴えると、咸興の本妻の家に移してくれました。咸興の家に私を連れて行ってくれた人が本妻から百円受け取って行きました。私の借金は二百円になったわけです。(P.104~105)

 夜学の二年生を修了して1年ほど休学していたときのことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、~(中略)~その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人は行かなくてはならない」と暗に脅迫しました。~(中略)~養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。~(中略)~二十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。(P.105~106)

 駅で五十代の朝鮮人男性が私たちの一行を引率し、日本の軍人に引渡しました。軍人は私たちを軍用列車に乗せました。軍用列車の他の車両には軍人が乗っていました。一つの車両に私たちの一行と他の女たちも合わせて五十人ほど乗っていました。他の車両にも女たちがいたようでしたが、よくはわかりませんでした。(P.106)

 汽車から降りるとなにやら放送する声が聞こえました。何の放送かと尋ねると、吉林駅だということでした。(P.107)

 ある日、移動する部隊があるので一緒に行きたい者はついて行ってもいいと言われました。~(中略)~トラックに乗って出発したのですが、吐き気がひどく外を見ることもできなかったので、どこをどのように行ったのかわかりません。船にも乗ったような気がします。軍人たちは私たちを慰安所に降ろしました。慰安所の建物は吉林の慰安所と似ていました。どこだったのかはわかりませんが、爆撃がひどくて夜は灯火することもできませんでした。~(中略)~八、九ヵ月ほどしたある日、軍人たちが吉林の方に後退する気配を察した私は、ひとり死にものぐるいで軍人たちの中に混ざってそこを出ました。そうしてもといた部隊に戻ったのです。満州に戻ってしばらくした頃、解放を迎えました。 (P.113)
1996.1.4 国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 ***** ****
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
1995.7.24 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 1」 ***** ****
 この年さあ、日本が中国と戦争を始めたのは。大騒ぎで軍人だ、補給部隊だって集めて。私は十六になった秋から、若い娘の動員も始まるんさ。三年契約で軍需工場で働くってんで。~(中略)~
 近所の若い娘たちはどんどん動員されてくだろ、私が十七になると、もう私たち四人しかいない。日本人の班長が、会うたびに「どうするのか」てきくし。
 義母は食事ものどに通らなくなって。私を出すか、クムジャを出すか。~(中略)~
 私は聞いちゃいられない。部屋に入って、「私が行きます」っていったんさ。私が行かなきゃ。もしクムジャが行ったら居ても立ってもいられないからね。
1995.7.25 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 2」 ***** ****
多い日で十五人ぐらい、クリスマスは二十人近かったね

(※管理人注:日本にクリスマスの慣習が根付いたのは戦後)
1997.夏 日韓社会科教育交流団韓国を訪問 ***** ****
満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
1997.12.5 元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡) ***** ****
1922年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。村の班長(日本人)「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって、1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。敗戦のときは、軍隊に置き去りにされ、やっとの思いで逃げ帰りました。
戦後、苦しい生活と性病の後遺症に悩まされ、悔しい思いをだいて生きてきました。
2001.5.17 TBS「ここが変だよ日本人」 ***** ****
私は19歳学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に行ったんだ!
2001.7.17 黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて ***** ****
14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


◆◆◆ 河順女(ハ・スンニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年普州(チンジュ)生まれ(※戸籍上は1918年になっている)。家が貧しく小学校に正規の入学年齢より遅れて入学する。その為、学友達にからかわれ学校に行くのが嫌だったが、どうしても行けと父親に叱られて着のみ着のままで家出。その後、光州で女中をしていたが、20、21歳の時、金になるからと日本人と朝鮮人の男に誘われるままついて行き、上海で慰安婦生活を強いられる。

1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2000.5.5死亡。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。騙した日本人と朝鮮人に連れられ、大阪経由で上海へ行く。その日本人が同女の入れられた慰安所の経営者だった。


【考察】

裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の点で大きく異なっています。

慰安所の主人に頭を棍棒で殴られた後、病院で治療を受けさせてくれたのは
 ○「裁判」・・・東京出身の衛生兵らしい優しい日本人
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉
その後
 ○「裁判」・・・その後1ヶ月くらいは顔が腫れ上がったため、軍人の相手はせずに働いていた
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉が「飯炊きだけをして軍人の相手をするな」と言ってくれ、以降、炊事洗濯をして終戦を迎える

「裁判」では、親切な計らいをしてくれた陸軍少尉の記述が抜け落ちています。裁判を意識して、ヤマモト陸軍少尉のエピソードを削除したのでしょう。「証言」の内容を信じるなら同女が慰安婦をしていたのは約1年間です。(ただし、「裁判」では上海についてからずっと慰安婦をしていたと読み取れる内容になっています)

恐らく、「証言」の内容が真実で、「裁判」の内容は弁護士か支援者の入れ知恵でしょう。


【信憑性】

一部内容を変更する等、細かい所で嘘が紛れている可能性もありますが、全体としては信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の証言 ***** ****
私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。~(中略)~主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました。~(中略)~3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしき優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。チョウさんの話では、そこの衛生兵は主人から慰安婦が働かないからなぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです。
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 そんなある日、二十か二十一歳になった頃だったと記憶しています。子供を寝かしつけ、近所の女中たちと集まって話をしていたところ、朝鮮人の男一人と日本人の男一人が近づいてきました。~(中略)~自分たちについて日本の大阪に行けば、たくさんお金がもうかると話しました。金に欲が出てどんな仕事なのかも聞きもせず、ついていってしまったのです。主人へは断りもしませんでした。(P.86)

 私たちを上海まで連れてきた日本人の男がその家の経営者だということがわかりました。(P.87)

 ご飯を炊いてお膳につくと、経営者が食べるなと言いました。それでも座って食べていると、逃げ出した奴めと言いながらはげしく殴られました。殴られた傷が完全に治ったころ、軍人が頻繁に訪ねてきて私が断ろうとすると、経営者は棍棒で頭を殴りました。頭からひどく出血したため、私はそのまま気絶してしまいました。~(中略)~私が相手をしたことのあるヤマモトという名の陸軍少尉は、頭に包帯を巻き横になっている私を呼ぶと、病院へ連れて行き、治療を受けさせてくれました。~(中略)~頭の傷が回復した後はその家で飯炊きをして暮らしました。私を病院へ連れていったその少尉は、飯炊きだけをして軍人の相手をするなと言いました。それでその後は、食事をつくり洗濯をして暮らしながら解放を迎えたのです。(P.91~92)

◆◆◆ 朴玉蓮(パク・オクリョン) ◆◆◆


朴順愛(パク・スネ)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年(戸籍上は1920年)4月20日、全羅南道茂朱(ムジュ)生まれ。16歳の時、貧しい家庭に事情も知らず嫁いだが、その家を逃げ出し、1936年18歳の時、金持ちの後妻になる。1938年20歳で息子を出産。1941年23歳の時、猜疑心の強い夫に紹介所に売り渡される。紹介所(注)で慰問団を募集するという話を聞き、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」ということだったので自ら志願、以降、ラバウルで慰安婦生活を強いられ、1944年正月頃に朝鮮に帰郷。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

朴という人物が募集をし、その朴と金、趙の3人の引率の元、軍艦に乗ってラバウルに向かう。この3人は慰安所で事務の仕事をしていた。


【考察】

夫に紹介所に売られた後、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」と言う話に騙されて慰安婦になったという話です。


【信憑性】

証言には特に不審な点は見当たりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 猜疑心がぶり返したのか、夫は私の髪を見ると因縁をつけるのです。そして私から子どもを取り上げると、私を紹介所に売り渡しました。私が二十三歳(一九四一年)、陰暦十月のころでした。(P.255)

 しばらくすると慰問団を募集するという噂が耳に入りました。「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればよい」といわれ、三年ほど働けば借金も返せるし、お金も儲けられるということでした。募集人員は二十五人で、私はクムスンと一緒に志願しました。~(中略)~陰暦の十二月ごろでしたが、その後、紹介所でしばらくの間、船が来るのを待ちました。(P.256)

 ソウルを発つとき、朴氏と金氏、趙氏の引率する私たち二十五人と、ハヤシという男の引率する二十五人の合わせて五十人の女がいました。夜に釜山に到着してすぐ船に乗りました。下関に到着後、船の中で一晩すごしました。~(中略)~下関から更に南へ向かい、到着するまで一度も船を乗りかえることはありませんでした。船は軍艦で、食堂や劇場、病院、風呂もあり、馬まで乗せていました。(P.257)

事務室には私たちを連れて来た朴氏と金氏、趙氏がいて、毎朝、券の計算をしました。(P.259)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1919年(戸籍上、1920年)4月20日、全羅北道茂朱郡で農業を営む両親のもと、6人姉妹の3女として生まれる。普通学校に2年生まで通ったが、学校に行くのが嫌でやめ、その後夜学でハングルを学んだ。
 16歳のとき、貧しい家に嫁いだものの逃げ帰り、18歳(1936年)で再び金持ちの家に後妻として入る。夫は家柄も良く財産もあったが、非常に嫉妬心が強く、酒が入ると殴られた。2年後の20歳のときに息子を産んだ。夫は2年間、日本に出稼ぎに行って帰ってくると猜疑心も酷くなっており、虐待を受けたあげくには息子を取り上げ、業者にハルモニを売り渡した。23歳になった年(1941年)の10月頃だった。
 ソウルにある紹介所で慰問団の募集の噂を聞いて、夫が受け取った身売り金を早く返し、強制的に別れさせらえれた幼い息子と一緒に暮らしたい一念で志願した。野戦病院で軍人たちの服を洗濯したり負傷軍人を看護したりする仕事で、およそ3年も働けば借金も返せるとのことだった。ソウルを出発した後、釜山を通って下関まで行き、そのまま軍艦で1ヵ月半かけて到着したのが南太平洋最南端の激戦地パプア・ニューギニアのラバウルだった。
 軍人を相手にするなど、夢にも思わなかった。食事のとき以外は部屋から出ることもなく、内から戸を閉めた。慰問所の主人が探しにきては「そんなことをしてどうやって借金を返すつもりだ」と脅した。逃げようにも四方を海に囲まれていて、逃げることもできなかった。
 「しずこ」と呼ばれ、1日に20~30人ほどの相手をしながら「慰安婦」生活を送った。軍人には必ず日本語を使えと、慰安所の主人から熱心に日本語を教えられた。性病にかかる人も多く、野戦病院から週に1度、検診に来た。性病にかかると606号注射を打って1週間ほど治療を受けるが、このときばかりは「休暇」の札を下げることができた。ハルモニは、生理のときにもそうしたそうだ。(P.132~133)

(※2007.4.26 追加)

◆◆◆ 金卿順(キム・キョンスン) ◆◆◆


崔明順(チェ・ミョンスン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年、ソウル生まれ。父が借金の保証人になって失敗して以降、苦しい生活を送る。1945年19歳のとき町内会の人が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言われて、反対する母を無視してこっそり家を出る。その後、広島のスハラという将校の妾にされる。何度も朝鮮に帰してくれと懇願したところ、妾にされて2ヶ月後、日本人二人に引き渡され大阪の慰安所に入れられる。4ヶ月後、病いが重くなった為、朝鮮に帰される。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

将校の妾になった後、将校の息子に日本人二人に引渡されて慰安所に入れられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

町内会の人に騙されて妾として売られたと言う話です。最初、広島のスハラという軍人の女中兼妾にされますが、そこの主人や奥さん、息子に、何度も何度も朝鮮に帰してくれと懇願していて、それが疎まれて慰安所に入れられてしまったようです。主人の奥さんは病気で寝ていたようで、おそらく、妾を持つことを奥さんも承知の上だったのではないでしょうか。その奥さんに対しても「私がいるから主人が奥さんのところに行かないと思うんです。私を朝鮮に帰せば主人は奥さんを愛するようになるでしょう」と言っていたようで、次第に奥さんも癇癪を起こして同女に対してつんけんするようになり、それでも、同じことを言い続けていたようです。

そもそも、戦地での強姦等を防止用に設置された慰安所が大阪にあったという事実は信じがたいものです。単なる売春宿だったのではないかと思います。 2007.6.27削除

--------------------以下 2007.6.27追加 --------------------

同女は、大阪の慰安所に入れられたと証言しています(注1)。
大阪なら、近くの歓楽街に繰り出せば済む話ですし、性病防止の為なら釧路(注2)のケースのように、遊郭から衛生状況の良い店を選んで指定すれば良い話です。

また、仮に大阪にあったとして、同女の証言によると、慰安所の入り口には軍人が3、4人いたとあります。そんな人員を裂いてまで慰安所を設置する意味などあるのでしょうか。


(注1)「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、「オオサカという言葉を聞いたような気がします」とあり、かなりあいまいなもののようです)

(注2)<第三魚雷雷艇隊戦時日誌 1944年7月>
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 三魚艇隊機密第二号ノ二
 第二 出征中ノ事項
  (ロ) 七月二十日海軍指定食堂及当市遊郭ヲ視察点検シ洗滌室ノ完備其ノ他衛生状況良好ト認ムル所六軒ヲ指定シ兵員ノ慰安所トシ七月二十八日総員ニ対シ衛生講話ヲ行ヒ一般衛生ニ関スル諸注意事項ヲ達シ伝染病及性病患者ノ発生防止ヲ計レリ
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--------------------以上 2007.6.27追加 --------------------


--------------------以下 2007.4.26追加 --------------------
また、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると次の通り相違点が見られます。

<生年>
○「写真」・・・1927年
○「証言」・・・1926年
→ 当時の韓国では、西暦はあまり重要視されていなかったらしく、生年がずれるのはよくあることのようです。

<姉を連れ去った人物>
○「写真」・・・日本人
○「証言」・・・不明。ただし、「『あの娘は日本人に連行されたのだ』とみんながひそひそ話をしているのを聞いたことがあります」とあり。
→ 「写真」では、日本人であったと明示していますが、「証言」では単なる噂話になっています。

<家の状況>
○「写真」・・・「お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくはなかったのです」
○「証言」・・・「父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています」
→ 家の状況は正反対です。

<学校をやめた理由>
○「写真」・・・落第させられそうになったため
○「証拠」・・・引っ越しして学校が遠くなり、月謝も払えなくなったため
→ 貧乏であったことを明らかにした為、学校をやめた理由も本当の内容に変更したのでしょう。

<徴用で取られて広島にいた兄>
○「写真」・・・一番上のお兄さん
○「証言」・・・次兄(長兄は金儲けをする為に満州に行った)
→ 何故、こんなところで食い違いが生じるのでしょうか。

<慰安婦になったきっかけ>
○「写真」・・・役所に勤めている日本人に「日本に金儲けに行かないか」と誘われる
○「証言」・・・町内会の男に「日本に行って働けば金も稼げる」と言われる
→ 役所の日本人が町内会の男に代わっています。
 なお、双方とも、具体的に何の仕事をすると言われたのか全く記載されていません。本当に「金儲け」としか聞いていなかったのなら、あまりに軽率。それとも具体的に書けない理由でもあるのでしょうか。

<一緒に誘いに乗った娘>
○「写真」・・・隣の家の娘
○「証言」・・・該当する記述はなく、同女1人だったと思われる
→ なお、「写真」では、一緒に働きに行こうとしたと記載されているだけで、その後、隣の家の娘は一切出てきません。

<下関で引渡された人物>
○「写真」・・・将校の「スハラ」
○「証言」・・・2人の日本人(この日本人達に「スハラ」の家まで連れていかれる)

<広島にいた兄の死んだ日>
○「写真」・・・1945年11月
○「証言」・・・故郷に帰ってきた翌年
→ この兄は広島で原爆にあって、それが原因で死亡しているのですが、「翌年」だと1946年以降になります。
--------------------以上 2007.4.26追加 --------------------


【信憑性】

慰安所に入れられたという話は信じがたく、単に売春宿に売られてのではないでしょうか。所々、ウソが紛れていそうです。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はソウル(当時は「京城」)で生まれ、お兄さん2人・お姉さん1人の4人兄弟でした。
 そのお姉さんは、15歳で日本人に引っ張られて行き、しばらく行方不明になりました。3年目の春に帰って来ましたが、病気にかかっていました。お母さんはこのことを他の人に秘密にするため引っ越しをしました。結局、お姉さんはその年の秋に亡くなってしまったのです。
 私は12歳で「普通学校」に入りましたが、5年生の時に落第させられそうになったのでやめてしまいました。
 18歳の頃の私は「顔がきれいだ」と評判でした。それで、役所に勤めている日本人に目を付けられて「日本に金儲けに行かないか」と誘われました。お母さんは、お姉さんが引っ張られたためにみじめに死んだことを話して断りました。しかも、お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくなかったのです。
 一番上のお兄さんが、戦争が始まってから「徴用」にとられて広島にいました。その日本人は「お兄さんにも会わせる」と言いました。それで私は、隣の家の娘と2人で働きに行こうと思ったのです。1945年正月のことでした。
 釜山から船に乗りましたが、たくさんの朝鮮人女性が乗っていました。~(中略)~
 下関に着いたのは夕方で、船から降りると髭をはやして体格の良い日本人に引渡されました。恐ろしい思いをしたまま連れて行かれたのは、広島にあるその男の家でした。こたつで体を温めてからの、夕食のご飯とみそ汁がおいしかったです。
 ところがその夜、その男に体を奪われたのです。とても痛かったのですが、声も出ませんでした。その家の他の部屋には、その男の病気の妻がいたのです。この男は「スハラ」という名前で、部屋には星の付いた将校の軍服・刀・馬に乗る時の鞭が置いてありました。~(中略)~
 「スハラ」は私をかわいがってくれたものの、いくら「帰してくれ」と頼んでも聞いてくれませんでした。それだけでなく、2人の男に私を引き渡したのです。私は大阪の倉庫に連れて行かれました。
 そこの入り口には歩哨が立っていて、事務所ではやって来た兵隊から切符を受け取っていました。建物の中は小さく区切った部屋がありました。部屋の数は通路の片側に10ずつでしたので、20部屋くらいでした。部屋は布団1枚敷けるだけの広さで、私は炊事場の隣でした。炊事場の向かいが便所でした。~(中略)~
 お兄さんは広島で原爆に遇い、肋骨が折れただけでなく体全体が膿んでしまいました。帰国したものの、1945年11月に亡くなりました。(P.93~94)

(※2007.4.26追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私はソウル駅前東子洞82番地で生まれました。私の上には姉と二人の兄がいました。父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています。~(中略)~
 私が九歳くらいになった頃、長兄と姉は学校に通っていました。姉は私より八歳年上でしたがたいそうきれいだったので、みんなから「姉さんの半分くらいでもなれればいいのに」とよく言われたものです。ところがある日、その姉が行方不明になりました。~(中略)~
 そして二、三年が過ぎた頃、姉は乞食のような姿で家に帰って来ました。骨だけのやせさればえた姉を一目見るために、何十人もの人が押し寄せました。みんなは女がきれいすぎると不幸になるのだと言いました。私が母の使いで出かけたとき、「あの娘は日本人に連行されたのだ」とみんながひそひそ話しをしているのを聞いたことがあります。~(中略)~
 当時長兄は結婚していましたが適当な仕事もなく、次兄は印刷所に勤めていました。私は小さい時からとりわけ次兄と仲が良く、次兄のいうことなら何でもしたし、兄も私のいうことを何でも聞いてくれました。両親よりも好きだった次兄は、二十歳になると徴用されて行きました。その後長兄は金をもうけるのだと自分の家族を連れて満州へ行き、結局両親と私だけが残りました。~(中略)~
 また他の町へ越したのが一九四五年、私が満十九歳になった年でした。新暦の正月だと記憶してますが、町内会の男が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言いました。もしも何もしないで家にいたら、挺身隊に出されて行くことになるだろう。日本に行って働けば金も稼げるし、挺身隊にも行かないですむからと言うのです。~(中略)~母に行くなと言われたのに夜通しあれこれ考えた末、こっそり身の回りの物を包んで、母が出かけている間に町内会の男を訪ねて行きました。~(中略)~一晩中汽車に乗って釜山で下りると、その男は二人の日本人の男に私を引き渡しました。(P.270~P.272)

 汽車から下りて二人の日本人の男が私をある家に連れて行きました。四十歳ぐらいの日本人の男が私を見て笑いながらとても喜びました。~(中略)~家の中を見わたしてみると、病気で寝ている奥さんと、二十歳ぐらいの息子がいました。~(中略)~それから後、主人は毎夜私と寝ました。~(中略)~主人の姓は「スハラ」といい、息子は「ジロウ」といいました。スハラは軍人でしたが、朝に軍服を着て出かけるのを見ると、肩には赤い布の上に星がついた階級章がありました。(P.274~275)

 ある日、スハラが朝出かけたあと、奥さんと息子とが一緒にいるとき、またお願いしました。すると奥さんと息子が自分たちだけで何とかするからと言って、息子が私に荷物をまとめろと言いました。~(中略)~私はどこかの駅に連れて行かれました。その息子が日本人二人に何かを言うと、私をその男たちに引き渡しました。(P.276)

 入口で監督する軍人が三、四人いましたが、彼らにもよく叩かれました。(P.278)

 おばさんは私がここはどこかと聞いても、そんなことは聞いてはいけないと言いましたが、でもちらっとオオサカという言葉を聞いたような気がします。(P.279)

 そうするうち次兄が日本から帰ってきましたが、広島で原爆が落とされたとき火傷を負い、体が腫れあがっていました。被爆した兄は、肋骨がボロボロに砕けて、翌年亡くなりました。(P.282)


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