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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 湯浅謙(ユアサ・ケン) ◆◆◆


【経歴等】

1916年、東京生まれ(父・開業医)
1941年 東京慈恵医科大学卒業 駒込病院勤務
1942年 北支山西路安陸軍病院赴任
1945年 太源にて敗戦
1949年 人民解放軍より釈放 政府病院勤務
1951年 河北省永年の捕虜収容所に家族と共に収容
1956年 起訴猶予で釈放、帰国
中国帰還者連絡会常任委員


【考察】

下記証言を読むと、あまりにも特定主義・主張の人達に都合の良い内容になっているので笑えます。
該当箇所を青字にしましたが、この証言1つで次のような主張の根拠として使えそうです。

 ○日本人は当時、朝鮮人、中国人達を蔑視していて「五族協和」 などは建前に過ぎない。
 ○天皇反対、日の丸反対、君が代反対

また、慰安婦関連で言えば、「『慰安婦』は正しく日本軍の性奴隷だったのです」と断言もしていますし、以下の通り「軍による強制連行」の証言もしています(又聞きの話ですが)。本当に盛りだくさんです。

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その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、「日本軍に騙されいた」「村祭りで遊んでいたら軍人に集められつれて行かれた」「父親の『承諾書』を見せられたが父親は字が書けなかったのに」「苦しくて消毒薬をのんで死を図った」等々の不満が噴出したそうです。
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同氏の証言が恣意的であるか否かは、各人の判断にお任せしたいと思います。「それが真実であるから、そういう証言になって当然」という方もいらっしゃるでしょう。

個人的には「こんな特定の主義・主張が色濃く反映された証言など使えない」と思いますが。


【証言内容】

出典等 1998.6 季刊「中帰連」第5号 「私が知る『従軍慰安婦』 湯浅謙」
内 容 (前略)

 私は子供のときから朝鮮人は卑しいと叩き込まれ「センジン」といってさげすんでいました。中国人も「チャンコロ」と侮蔑しておりました。こういう民族差別の意識から、「この戦争は正しい、日本は天皇を頂いて必ず勝つ、いつかアメリカ、イギリスに伍してアジアを征服するのだ」という誤った考えをもっていました。当時日本中があの戦争に浮かれていたので、真実を知る者は極めて僅かだったでしょう。

 私は軍国青年として育ち、軍医として中国に渡りました。丁度あの太平洋戦争が始まったときで「これは素晴らしい、やはり天皇を頂いた神の国だ」と意気揚々としていました。「私の背後に天皇がいる、中国人に対しては日本の武力がある」そのような権力を背負った自分でした。

 1942年1月、中国山西省南部の路安にある陸軍病院に着任しましたが、そこは付近を占拠している36師団の司令部の所在地で、そこでの私の日常は兵隊と中国人に対し驕り高ぶったものでした。

 路安には軍人専用の朝鮮人「慰安所」があり、病院の軍人たちもよく訪れていました。兵隊は国家から遮二無二連れて来られ、言わば父母を人質にされて戦場へ駆り出されたのです。万一自分が巌しい軍紀に触れれば親兄弟に迷惑が掛かる。日の丸、君が代で拘束され上官からは苛められる。何時戦場で無残な死を遂げるかわかりません。そんな日常の中でやっと気が抜けるのが月に一回か二回訪れる慰安所です。そこで元気を取り戻して明日から辛い日常です。即ち活力の元が「慰安婦」だったのです

 私は日本ではそのような経験もなく、また朝鮮人を「汚い」と差別していたのでしばらくは近づきませんでした。

 私が「慰安婦」を初めて見たのは私が居留民の女性の衛生救急教育をしたときです。そのとき私は「朝鮮人でも包帯を巧く巻けるのか」とか「お前は日本人と天皇陛下を同じくして嬉しいんだろう」ぐらいに見くびっていました。

 半年ほどして軍務にも慣れました。毎週末に全将校は病院長との会食があり酒を飲みましたが、或るとき酒の勢いで皆と一緒に慰安所を訪れました。慰安所での値段は兵隊は2円で5時まで、下士官は3円で7時まで、将校は泊って10円。但し慣れている仲間からサービス料を出せと言われて15円置いて一時間位で帰りました。これが私の初めての体験ですが、飲んで騒いで遊びに行っただけという気持ちでした。その後そこには2~3回行ったように覚えています。またこんなことがありました。日曜は兵隊の外出日で慰安所は混雑します。それで私たち将校は行かないことにしてあったのですが、或る日曜の夜皆と酒を飲み酔っ払って訪れたことがあります。ところが以前の女性がいない。「部屋にいる」と言われて行くとグーグー眠って目をさまさない。沢山の兵を相手にして疲れ果てたのです。気の毒に思い15円置いてそのまま帰りました。

 いつも皆と一緒に酒を飲んだ挙句に行ったのですが、一回だけ一人で行ったことがあります。それは1945年4月、中支軍が突っ込みすぎて重慶軍に包囲され離脱できず、山西から一ケ師団を結成し北から応援に出動したときのこと、私は病院から隊付の軍医として派遣されました。単独の赴任で、黄河を越えた河南省はマラリアや栄養失調症が多発すると聞いていたので淋しくなり、途中の太原市で無理して酒を飲み一人で慰安所を訪れました。そんな気持ちを察したのか、朝鮮の慰安婦から「死んじゃ駄目よ」と慰めの言葉を掛けられたのを覚えております。また、運城の陸軍病院に応援軍医として派遣されたときも皆と一緒に慰安所に行きましたから、結局六、七回は訪れているでしょうか。

 当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。然し彼女たちには本当のこと、つまり「私は強制され連れて来られた」とか、「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」などとは絶対に言えなかったのです。相手は軍人、ましてや将校、「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。だから性奴隷です。これが植民地支配の実情です。

 私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。

 しかし「外出もできたから自由があった。お金を得たから奴隷ではない」などと言う若いマンガ家や「兵隊を拒否しなかったから商売だった」という大学教授もおります。これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです

 私はまた彼女たちの性病検査をしました。前記の河南省に派遣される部隊が、まだ山西省南部に駐留しているときのことでした。周囲は山々で各分遣隊への道には点々とトーチカが作られておりました。赴任して間もなく大隊長に呼ばれたところ、「嬉しいことがある」とにこにこ顔で言われ、「慰安婦」六、七名が来たのです。別に性病検査の命令は受けなかったのですが、軍医の私しかいないのです。

 私は産婦人科の経験は学生時代しかなく自信がなかったのですが、六、七名の「朝鮮人慰安婦」の性病検査をしました。リンパ腺にふれて腫大をみたり、クスコという器具を性器に突っ込み粘膜の異常をみる。尿道部を圧迫して腹が出るかを検査しました。そして全員合格とし、部隊には回覧を廻して「全員合格だが肉眼的所見によるものだから必ず予防具をつけること」と通知したわけです。

 そこでは又こんなことがありました。「大隊長の子を宿した」と言う女性がいたのです。これには困りました。日本軍の権威に係わることです。そこで大隊副官と相談し「絶対に堕させること」にしました。私は検査官という武器=権力を持っておりましたから彼女も従わざるを得なかったのでしょう。結局よそに行って堕胎したようです。

 私が3年半いた路安陸軍病院のことですが、兵隊は日曜の外出日には慰安所を訪れるのが最大の楽しみでした。整列した兵に「みんな持っているか」「はーい」、予防具を持っているかを確かめるのです。

 また外出日に当番に当たると町を巡察します。肩から巡察の帯をつけて衛兵を連れ肩をいからして歩くのです。乱れた態度の兵を見つけると注意します。私は巡察時には慰安所には行かぬよう先輩から注意されました。その先輩は馴染みの慰安婦から「今日は偉そうな格好している」と冷やかされ、慌てて逃げてきたそうです。また路安では露営会議といって駐屯する部隊の副官が集まり、私も出席し、日曜日だけの外出では慰安所がいっぱいになるから、部隊に外出曜日を割りあてました。また物価騰貴の折から2円を3円に値上げしたように記憶しています。このように慰安所の経営は業者(軍属?)が行ったのですが、管理は軍がしていたのです。結局戦地の兵士は殆ど全部慰安所を訪れたでしょう。

 以上のほか私が他の軍人と違う体験をしたのは、敗戦後も2700名の軍人と共に国民党軍に徴用され3年半も人民解放軍と戦ったわけですが、その中に軍人の妻となった朝鮮人慰安婦が何十名かおりました。そして全中国の解放時に軍人は捕虜収容所に収容されましたが、彼女たちは軍人の家族として家族隊で生活していました。その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、「日本軍に騙されいた」「村祭りで遊んでいたら軍人に集められつれて行かれた」「父親の『承諾書』を見せられたが父親は字が書けなかったのに」「苦しくて消毒薬をのんで死を図った」等々の不満が噴出したそうです。

 また殆どの捕虜と家族は、1953年夏帰国を許され大部分は朝鮮に一部は日本に帰りましたが、日本の家庭では彼女らは受け入れられず、ただ働いて働いて多くは苦しみの中に亡くなられたと聞いています。


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