元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 吉田清治(ヨシダ・セイジ) ◆◆◆
【経歴等】
本名、吉田雄兎、別名は東司、栄司
1913年10月15日生まれ。本籍は福岡県芦屋町西浜
1937年、満州国地籍整理局に就職
1996年3月結婚
1942年9月、労報下関支部に就職
1947年4月、下関市議に共産党から出馬して落選
1970年頃、門司の日ソ協会の役員をしていた
1977年3月、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中では、朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談がハイライトになっている。(ただし、慰安婦は狩り立てではなく、朝鮮人地区の女ボスが話をつけて労報へ中継ぎする方式になっている)
1982年9月2日、朝日新聞(大阪版)に大阪での市民集会の講演内容が掲載され、慰安婦狩りの告白が初登場。
1983年7月、『私の戦争犯罪(三一書房)』を出版。慰安婦狩りの生き証人としてマスコミ等でもてはやされる。
※参考:秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6
【考察】
「ザンゲ屋」、「詐話師」として有名な人物。
その詐話っぷりについては、既に多くの方が書籍、ホームページ等で論じているので、当ページでは吉見義明氏の以下の文章を紹介するに留めたいと思います。
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では、この証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地でえられた証言は否定的なものばかりだったといっている。そのほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。
そこで、私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。
これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。
そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は、一九九一年から慰安婦問題の研究をはじめたが、この間、吉田さんのこの証言はいっさい採用していない。
証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦[徴用]にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。
<吉見義明・川田文子「『従軍慰安所』をめぐる30のウソと真実」大月書店1997.6(P.26~27)>
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なお、現在の日本ではさすがに、「吉田証言」を強制連行の証拠として使用する知識人はいないのですが、海外では、有効な証拠として取り扱われることがあるのが現状です。
例えば、2007.6.26に米下院外交委員会で可決された慰安婦決議案でも「吉田証言」が有力な根拠として使用されていますし、2007年に発行された<琴秉洞「告発<従軍慰安婦>」同時代社2007.5>にも証拠として引用されています。
「吉田証言」は、「証言などいくらでも作り上げることができる」という良い例であるとともに、ウソであっても(もしくは、信憑性不確かであっても)、その証言内容が自分の主張に都合の良いものであれば、いくらでも取り上げる人がいるという良い例であると言えるでしょう。
本当のことならともかく、ウソ証言を元に批判されたのではたまったものではありません。
【証言内容】
出典等 1991.5.22朝日新聞(大阪版) 内 容 「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、”挺身隊員として連行された” 女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田さん(77)=千葉県=である。
「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。とはいえ、その実態は歴史から消えている。慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。
吉田さんは自著「私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。 (以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)
私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。
10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。
今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。
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