元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 日本国内の慰安所 ◆◆◆
管理人が資料等で確認できたもののみを記載しておりますのでご留意下さい。
1 | 公文書 |
2 | 元日本兵の証言、その他 |
3 | 元慰安婦の証言 |
【公文書】
場 所 根 拠 備 考 等 北海道(釧路) 【根拠】
<第三魚雷艇隊戦時日誌 1944年7月> (注1)
三魚艇隊機密第二号ノ二
第二 出征中ノ事項
(ロ) 七月二十日海軍指定食堂及当市遊郭ヲ視察点検シ洗滌室ノ完備其ノ他衛生状況良好ト認ムル所六軒ヲ指定シ兵員ノ慰安所トシ七月二十八日総員ニ対シ衛生講話ヲ行ヒ一般衛生ニ関スル諸注意事項ヲ達シ伝染病及性病患者ノ発生防止ヲ計レリ【備考等】
遊郭を視察して、衛生状況が良好なところを慰安所として指定したという話。
遊郭街があったとしても店によって衛生状況はピンキリ。兵士達が性病に罹ったりしないよう指定するようにしたということでしょう。
海軍第三魚雷艇隊は釧路市内にあった遊郭を指定した。小笠原諸島 【根拠】
<父島要塞司令部参謀部陣中日誌 1942年5月> (注1)
五月九日曇
防衛報告娯楽所ニ関スル件
三、東部軍参編電第二〇二号
「娯楽所(女)洲崎ヨリ二十六名、吉原ヨリ十五名業者に於テ準備シアリ十五日頃出帆ノ芝園丸ニテ輸送ノ予定ナリ、人員ノ数差支ナキヤ返
五月十二日晴
防衛報告娯楽所ニ関スル件
四、東部軍参編電二一〇号
「十五日出帆芝園丸ニテ洲崎、吉原ヨリ女各十名宛付属人員十名合計三十名貴地ニ到ル一応到著後ノ処置並ニ爾後ノ娯楽場ニ関スル件ハ貴部ニ於テ業者ヲ指導サラレ度」【備考等】
東京の遊郭街である洲崎、吉原より業者を呼び寄せて慰安所を設置した話。沖縄 【根拠】
<要塞建築勤務第六中隊陣中日誌 第二・第三号 1994年5-6月> (注1)
~ 慰安所建築作業に関するもの。内容は省略 ~
<真子喜警備中隊陣中日誌 1944年11-12月> (注1)
十一月七日 火曜日 晴 真志喜
一、松尾一等兵慰安所設置使役兵トシテ七時大隊本部ニ至り十八時異常ナク帰隊ス
~ その他、同様の内容であるため省略 ~
<北飛行場第五六飛行場大隊派遣重信班 陣中日誌 1944年12月> (注1)
~ 軍人倶楽部改築に関するもの。内容は省略 ~
<第六二師団副官部陣中日誌 第一九号 1945年1月> (注1)
一月十五日 小雨
三、3.管理班山口軍曹以下五名首里慰安所設備作業ヲ実施ス
<独立混成第四四旅団第二歩兵隊第二大隊各隊 真部山軍慰安所建築関係 1945年1-2月> (注1)
~ 慰安所建築関係。内容は省略 ~
【備考等】
(注1)吉見義明「従軍慰安婦資料集」大月書店1992.11(P.379~408)より転載
【元日本兵の証言、その他】
場 所 根 拠 備 考 等 長野(松代) 【根拠】
<秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6>
「松代には西松組が七千人の朝鮮人労務者のために作った十五軒の慰安所があった」(日垣隆「松代大本営の真実」1944、136ページ、「週刊金曜日」97年2月14日号の馬場千奈津稿、NHK衛生第一TV「戦争・心の傷の記憶」98年8月14日放映)(P.188)
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<松代大本営の保存をすすめる会編「新版 ガイドブック 松代大本営」新日本出版社2006.7>
「20歳前後と思われる4人の朝鮮人女性が、『親方』と呼ばれる朝鮮人の一家4人と、買い出し役をしていたらしい1人の下働きの男と一緒に住み込み、客に料理を出し、性の相手をさせられた。~(中略)~
ここを利用したのは誰か。はっきりわかっていないが、日本の軍人たちは来ていなかったようである。崔小岩さんが「行ったことがない」と証言しているように、朝鮮人労務者も、過酷な労働の中で慰安所に出向くのは不可能と考えるのが妥当だろう。児沢さんの証言も合わせてみると、朝鮮人の中でも、現場の頭などをしていたような上層部の人たちが来ていたのではないかと考えられる。」(P.54~55)
「『慰安所』 児沢聡さんの証言 『~(前略)~次の日に詳しく聞いたら、そろそろ朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらしねように、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねてやるから貸してくんねかって言ってきたから~(後略)~』」(P.55) ※慰安所の家主の証言
----------以下、2007.7.3追加--------------
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<吉見義明/林博史「共同研究 日本軍慰安婦」大月書店1995.8> ※以下は西野留美子氏担当分
「長野県松代に大本営の地下施設工事が開始されたのは、一九四四年一一月一一日のことだった。西松組が雇用した労働者と強制連行してきた朝鮮人約七〇〇〇名が、この工事にあたったといわれている。本土決戦を覚悟した方針により、極秘のうちに進められた工事であったため、天皇の『ご座所』を掘った朝鮮人一八〇名は、秘密漏洩を防ぐために殺害されたともいわれる。
この工事の指揮・監督にあたる軍人のために慰安所設置の準備が始められたのは、工事着工直前のことだった。戦前は養蚕室として使われていた建物の所有者を訪れた警察官は、「朝鮮人が近くの婦女子にいたずらしないためにつくるのだ」という理由で、一九四四年一二月から一ヵ月一〇〇円の家賃で、半強制的に建物を借り上げて、慰安所を準備した。ここに連れてこられた慰安婦は、二〇歳前後の朝鮮人女性四名だった。彼女たちを連れてきた慰安所の楼主は、子連れの朝鮮人夫婦だった。さらに慰安所には、「用心棒」役に朝鮮人男性が雇われていたのである。女性たちは、敗戦までそこにいたが、その後の消息はつかめていない。」(P.140~141)
----------以上、2007.7.3追加--------------
【備考等】
朝鮮人労務者向けの慰安所。
----------以下、2007.7.3追加--------------
「新版 ガイドブック 松代大本営」では、「日本の軍人は来ていなかったようである」とありますが、「共同研究 従軍慰安婦」では、「軍人のための慰安所設置」とあります。
前者は、明記はされていませんが、慰安所の家主や近隣住民の聞き取り結果等から出されたであろう結論であり、また、同書には「多数の朝鮮人女性を女子挺身隊などの名目で強制連行し、従軍慰安婦として、東南アジアをはじめとするすべての戦線に連れていった」(P.54)という記述があることを勘案すると、より、真実に近いのは前者であると思われます。わざわざウソを書く理由がないからです。
----------以上、2007.7.3追加--------------
千葉(木更津)
(※2007.7.3追加)【根拠】
<吉見義明/林博史「共同研究 日本軍慰安婦」大月書店1995.8> ※以下は西野留美子氏担当分
「木更津海軍航空隊が開隊したのは一九三六年のことだった。その後一九四一年には航空隊の近くに、航空兵器やその修理・保管のための第二海軍航空厰がつくられた。さらに八重原村、周西村に八重原工場が建設され、強制連行されてきた多くの朝鮮人により佐貫町の山中に巨大な地下工場がつくられたのである。
この地に海軍慰安所六軒が開設されたのは、一九四三年二月のことだった。女性たちは「海軍慰安所従業婦」として募集され、一軒に七名から一〇名、総勢約五〇名の慰安婦が集められた。日本軍慰安婦の他に、朝鮮人業者が経営する慰安所には、朝鮮人軍慰安婦の姿もあった。ここには、朝鮮女性と沖縄の女性が十数名集められていた(57)。朝鮮女性は銚子から連れてこられたが、海に飛び込み自殺した者もいたという。」(P.137)
「(57)明石清三『木更津人肉の市』1957年、洋々社、56ページ以下」(P.149)
【備考等】
奈良(天理)
(※2007.7.3追加)【根拠】
<吉見義明/林博史「共同研究 日本軍慰安婦」大月書店1995.8> ※以下は西野留美子氏担当分
「大和海軍航空隊が大林組に依頼して進めていた奈良の柳本飛行場建設においても、軍人用の慰安所が作られていた。
外部にしられることはなかったが、敗戦まぎわに、姜正市さんはこの慰安所の存在を知ることになった。敗戦になり、女性たちを救い出そうとそこを訪れたところ、『慰安所は一つの棟で通路の両側に三畳間が合わせて二十八あった。なかはうす暗く荒れはて、悪臭が鼻をついた」という。ここにいた慰安婦は二五人全員が朝鮮人で、年齢は一七歳から二四歳だった。挺身隊として集められ、『軍隊で兵隊さんの身の回りの世話をする仕事だ』と説明された。ところが日本に連れてこられ、入れられたところは慰安所だったのである。『日本敗戦後、彼女たちを監視してた男たちは逃亡し、姜さんらが助けに来るまで、生活するすべを持たない彼女たちは慰安所に残らざるをえなかった』という(64)。」(P.141)
「(64)朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』1990年、明石書店、120ページ以下」(P.149)
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<解放出版社編「金学順さんの証言『従軍慰安婦問題』を問う」解放出版社1993.2>
「戦争末期、奈良県天理市に急ごしらえで建設された大和海軍航空隊の柳本飛行場について取材したが、その過程で建設現場に慰安所があった事実を知り、「日本でいい仕事がある」と騙され朝鮮半島から連行された年若き女性たちがいた事実に出合ったのである。~(中略)~
まもなくして、戦後、その慰安所から二〇人近い『朝鮮人慰安婦』を救い出した在日朝鮮人男性姜正市さんと会うことができた。~(中略)~
『女性たちは慶尚道(韓国慶尚南道、慶尚北道両道をさす)から連行された。桜井町の特高警察が計画し、協和会の最高幹部、日本名池田という男が慶尚道を訪れて、『家事の手伝い仕事だ』とだましたのだ』
『女性は一七歳から二六歳までの二〇人だった』
『昼はマメ、夜はカンパンという粗末な食事しか支給されなかった』
完成直前だった飛行場には二千人とも三千人ともいわれる朝鮮人徴用工がおり、解放の日から一ヵ月後に下関まで送られ、そして輸送船で釜山に渡った。しかし、『慰安婦』にされた女性はその場に放置されたのである。
『解放後、彼女たちだけは飛行場用地に取り残された。日々の食料もことかき、飛行機用のメチルアルコールを飲むなどしてなんとか飢えを癒した。このことを聞いて、私は現地にかけつけ救出したのだ。四五年九月下旬のことだ』(P.207~210)
【備考等】
「共同研究 従軍慰安婦」では「軍人用の慰安所」と明記されていますが、「建築中の基地」、「朝鮮人労務者」、「大林組」と、松代と同じパターンです。本当に「軍人用」だったかは、他の資料もあたってみないと何とも言えないところです。
また、上記の両書とも、同一人物からの証言を元にしていますが、内容が微妙に違っています。
敗戦と共に朝鮮人労務者達は朝鮮に帰ったのに、何故、慰安婦だけが取り残されたのでしょうか。一緒に帰ればよさそうなものですが。
香川(観音寺)
(※2007.7.3追加)【根拠】
<吉見義明/林博史「共同研究 日本軍慰安婦」大月書店1995.8> ※以下は西野留美子氏担当分
「一方、四国の観音寺市にあった海軍飛行場にも、同様の慰安所がつくられていた。この飛行場の建設は、1943年4月に決定し、作業が開始されたのは翌年の4月ごろだった。飛行場建設の土木作業にあたったのは朝鮮人であり、『香川県知事引継書』には『朝鮮人強制労働者は四五三名』と記述されているが、最盛期には五〇〇名はいたといわれる。請け負い業者は松村組であった。ここから川沿いに一〇〇メートルぐらいの場所に、三〇ほどの部屋を区切った慰安所があったことが、地元調査団の調べで明らかにされた(65)。」(P.142)
「(65)朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 四国編』1992年、柏書房、132ページ以下」(P.149)
【備考等】
果たして、軍人用慰安所だったのでしょうか、それとも朝鮮人労務者向けの慰安所だったのでしょうか。
沖縄(宮古島) 【根拠】
<1992・京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告集編集委員会「性と侵略ー『軍隊慰安所』84か所 元日本兵らの証言」社会評論社1993.7>
「沖縄本島の南に宮古島ちゅう島がありますけど。そこにおったんですけど。そこにも二か所くらいあったかなあ。五人ずつ、全部で一〇人ぐらいやったと思う。それは終戦後、米軍がつれていきよりました。沖縄本島へ。飛行機で迎えにきて。おそらく朝鮮人の人か日本人か、どっちかやろねえ、親方がねえ。」(P.66) ※豊部隊(二八師団) 憲兵の証言
【備考等】
※下記書籍では、日本兵の証言として上記以外に「北千島・占守島、新島、八丈島、松山、南大東島、沖大東島、石垣島、琉球諸島」に慰安所があったとされています。元の資料を確認できれば上の表に反映させます。
<姜春子・金富子・金薫子・朴潤南・梁澄子「もっと知りたい『慰安婦』問題 性と民族の視点から」明石書店1995.1>
----------------以下、2007.7.3追加--------------------
※<吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書1995.4>には、「そして、大量の兵員が送られた地域では、多くの軍慰安所がつくられた。本土決戦にそなえて大量の兵員が配置された九州や千葉県にも設置されている。」(P.77)とあります。
----------------以上、2007.7.3追加--------------------
【元慰安婦の証言】
※名前のリンクをクリックすると信憑性の検証ページに飛びます。
場 所 根 拠 備 考 等 長野(松代)
富山(?)【根拠】
○姜徳景
<伊藤孝司「写真記録 破られた沈黙」風媒社1993.7>
「『ここはどこですか』と聞いてみました。そしたら『マツヤマ』だとか『マツシロ』とか言ったんです。兵隊の『小林』にも聞いたところ、口に手を当ててシィーと言いながら、「ここは天皇陛下が来るところ」とか「避難に来るところ」と言いました。」(P.68)
※同女は不二越の工場を脱走した後、憲兵に捕まり慰安所に入れているので、最初に入れられたのは富山あたりだと思われます。上の証言は、その後に入れられた所。【備考等】
「写真記録 破られた沈黙」には、姜徳景が松代大本営の慰安所跡を訪問した時の写真が掲載されていますが、上記【元日本兵の証言、その他】に記載しているように、この慰安所跡は朝鮮人労務者向けの慰安所です。大阪 【根拠】
○金卿順(崔明順(仮名)と同一)
<伊藤孝司「写真記録 破られた沈黙」風媒社1993.7>
「私は大阪の倉庫に連れて行かれました。そこには入り口に歩哨が立っていて、事務所ではやって来た兵隊から切符を受け取っていました。」(P.94)
<韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会「証言-強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店1993.10>
「おばさんが私がここはどこかと聞いても、そんなこと聞いてはいけないと言いましたが、でもちらっとオオサカという言葉を聞いたような気がします。」(P.279)【備考等】
大阪 【根拠】
○尹順萬
<伊藤孝司「写真記録 破られた沈黙」風媒社1993.7>
「ある日、私を含めた7人の朝鮮人女性が大阪に送られました。そこで『慰安婦』にされたのです。」(P.90~91)【備考等】
福岡
神戸
大阪
千葉(流山)
和歌山【根拠】
○沈美子
<アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴状>
「『ここはどこか。』と同室の女性たちに聞くと、日本の『福岡』というところだといわれた。」
「その後、テント付きのトラックで神戸の慰安所に移動し、そこに約八ヵ月いたあと、さらに大阪の慰安所に移された。」
<伊藤孝司「〔証言〕従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」風媒社1992.8>
「女たちが『ここは福岡だ』と言うので」(P.141)
「ある時、『ナガレヤマ』の部隊に『慰安婦』を連れて行くトラックがあった、私も乗って行きました。」(P.144)
「私は『鈴木』に連れられて「ナガレヤマ」だけでなく、神戸・大阪・和歌山にある部隊にも、福岡から行ったり来たりしました。」(P.149)【備考等】
流山と和歌山については、裁判の訴状には見られない。千葉(茂原)
(※2007.7.3追加)【根拠】
○田中タミ(仮名)
<川田文子「皇軍慰安所の女たち」筑摩書房1993.8>
「農家が点在する千葉県茂原の田園地帯に、忽然と七軒の慰安所が建てられたのは一九四四年秋である。大吉楼の主も軍の要請を受け、出店した。建物は、日頃船橋の店に出入りしていた大工が建てた。~(中略)~
それまで船橋で小間使いとして働いていたタミは、慰安所開設と同時に茂原に連れて行かれた。」(P.186)
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<吉見義明/林博史「共同研究 日本軍慰安婦」大月書店1995.8> ※以下は西野留美子氏担当分
「一方、一九四三年に千葉県茂原に海軍の航空基地がつくられた。その翌年の秋に、ここにも海軍慰安所7軒が設置された。一軒に六、七名いた軍慰安婦は、『茂原に来るまでは売春体験いや性体験もなかった娘たちだった(59)』という。業者は船橋や州崎からきた遊郭経営者がほとんどであったが、軍人・軍属以外の立ち入りは禁じられ、軍の指導のもとに軍慰安所として経営された。」(P.138)
「(59)川田文子『皇軍慰安所の女たち』1993年筑摩書房、187ページ以下」(P.149)
【備考等】
沖縄
(慶良間諸島(渡嘉敷島)、大東島、那覇)【根拠】
○裵奉奇
<川田文子「イアンフとよばれた戦場の少女」高文研2005.6>
「コンドウは朝鮮から連れてきた51人を慶良間諸島に21人、大東島に10人、那覇に20人と三組に分けました。慶良間に向かった21人はさらに7人ずつに分けられました。こうしてポンギさんは慶良間諸島のなかの一つの島、渡嘉敷に着きました。」(P.20)【備考等】
※下記書籍では、慰安婦の証言として上記以外に石垣島に慰安所があったとされています。元の資料を確認できれば上の表に反映させます。
<姜春子・金富子・金薫子・朴潤南・梁澄子「もっと知りたい『慰安婦』問題 性と民族の視点から」明石書店1995.1>
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