元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李玉粉(イ・オクプン) ◆◆◆
※李貴粉と表記されている場合も有り
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1926年(注)慶尚北道永川(ヨンチョン)生まれ。家の暮らしは楽な方だった。11歳の時、永川南部小学校に入学、12歳の時、蔚山(ウルサン)に引っ越す。その2ヵ月後、友達とゴム遊びをしている時、日本人一人と朝鮮人一人が来て、お父さんが探しているよと騙され、そのまま3ヶ月監禁される。その後、船に乗って下関に行き日本語を教えられた後、台湾の慰安所(もしくは料亭兼売春宿)に入れられたが、年齢が14歳未満だった為、そこでは小間使いをさせられていた。
ある日、警察に逃げ込むが、実家に問い合わせた際、母親が突然来た巡査に驚いて「そんな娘はいない」と答えてしまった為、そのまま警察署の部長の家で5年間、女中をすることになる。
1942年の17歳の時、部長一家の帰郷と共に慰安所に入れられ、以降、終戦まで慰安婦生活を強いられる。
1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。
(注)裁判の訴状では1927年生まれ(戸籍上は1929年)となっている
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。監禁された後、「炭鉱ズボンをはいた日本人」に船に乗せられる。下関では、「薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男3人」が監視。台湾では「日本人の男達」が出迎え。
ただし、最終的に入れられた慰安所の管理人が板倉という軍曹。
【考察】
日本人の人さらいに拉致されたという話。帰郷と共に慰安所に入れてしまった警察署の部長もひどいと思いますが(身元不明の女性を日本に連れて行くわけにもいかなかったのでしょうが)、そもそも、母親がちゃんと答えてさえいれば慰安婦をすることなく帰れただろうにと思います。
また、以下のように、所々、怪しい記述が見受けられます。
○証言によると、高尾特攻隊の慰安所に入れられたのは1942年になっていますが、特攻隊の設立は1944年です。
○管理人の板倉という男の階級が軍曹だったと述べていますが、慰安所にいる慰安婦以外の人は仲居の女性2人と小間使いの小僧だけになっています。慰安所の主人が軍人だったとは思えません。
-------------------- 以下、2007.4.10追加--------------------------
なお、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると下記の通り内容が異なっています。
<生年>
○「裁判」・・・1927年(戸籍上は1929年)
○「証言」・・・1926年
当時の状況が分からないので何とも言えませんが、生年はそんなに不確かなものだったのでしょうか。
<拉致された年月>
○「裁判」・・・1938年の10月頃
○「証言」・・・1937年9月16日頃
生年を1年繰り上げたので、拉致された年も1年繰り上げたのでしょう。また、「10月頃」とあいまいだったものが何故か「9月16日頃」と具体的な日にちに変更されています。
<拉致後、閉じ込められた所>
○「裁判」・・・下宿屋の部屋
○「証言」・・・納戸
<下関での監視役>
○「裁判」・・・旅館の仲居
○「証言」・・・薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男三人
<台湾で同女が最初にいた所>
○「裁判」・・・ある料亭に売られた(ただし、ただの料亭ではなく売春もしていたようです)
○「証言」・・・慰安所本部
料亭と慰安所本部では大きな違いです。恐らく、拉致された後、入れられた所が単なる料亭では強制連行の証言にならないので変更したのでしょう。
<慰安婦になった年>
○「裁判」・・・1943年
○「証言」・・・1942年
こちらも生年の変更に伴い変更したのでしょう。特攻隊設立は1944年なのに、さらに遠ざかっています。
<慰安所の管理人>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・板倉という軍曹
微妙な変更で証言の信憑性を云々できない程度のものが多いですが、「料亭」→「慰安所本部」への変更は明らかに意図的です。
-------------------- 以上、2007.4.10追加--------------------------
【信憑性】
所々、細かい所で記憶を意図的に修正している可能性大です。
しかし、現在見つかっている証言の不一致は信憑性を完全に否定できるほどのものではないと考えます。特攻隊の件も単なる記憶の相違かもしれません(例えば、相手にした兵隊に特攻隊の者が多く印象に残っていたので、そう勘違いした等)。
おそらく、大筋は本当でしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992 裁判の訴状 ***** **** 原告李貴粉(イ・キプン。以下、「李貴粉」という。)は、一九二七年(戸籍上は一九二九年)、慶尚北道永川に生まれた。李貴粉は、四人きょうだいの長女であり、永川中部小学校四年まで通学していた。学校では日本語を教え、韓国語は習わなかった。満一一歳ころ、一家がウルサンに引っ越し、さらに釜山に引っ越そうとしている時、一九三八年の一〇月頃の朝一〇時くらいのこと、李貴粉が、ウルサンの村で、女の子三人で、「かあちゃん、この子をどうするか、すてておいてかわいそう・・・・・・」こうした歌を歌いながら、縄跳びをして遊んでいた時、日本人と朝鮮人通訳の二人連れの男たちに声をかけられた。その男たちは、「お父さんが呼んでいる、一緒に行こう」といって、李貴粉を連れ出した。このとき李貴粉は、黒いチマ、白いチョゴリの普通の格好をしていたが、体格もよく一四歳くらいに見えたのではないかと思う。その男たちは、李貴粉をウルサン市内の下宿専用の「チョンミョンギル」(趙明吉か)の家に連れ込んだ。李貴粉は、途中でおかしいと思い、「家に帰る。」と言って抵抗したが、その男たちによって無理やりその家に引っ張り込まれた。裏から下宿屋の部屋に入れられると、一五、六歳の女が三人いた。李貴粉は、「はるこ」という名をつけられた。~(中略)~下関である部屋に連れて行かれ、そこには三八人の女たちが集められていた。~(中略)~ここでは、「(旅館の)仲居さん」が李貴粉らの監視役だった。一九三九年の二月頃、李貴粉ら三八人は、二村に引率され、連絡船に乗せられ、台湾・高雄についた。高雄には日本人が出迎えに来ており、高雄から汽車に乗って『しょうか(彰化か)』というところに全員連れていかれた。~(中略)~李貴粉は、七人グループである料亭に売られたが、料亭の名はいま、記憶にない。料亭の女性たちは着物姿の芸者スタイルだったが、朝鮮人が多く、台湾の女性もいた。七名のうち、五名はウルサンで集められた「とき子」「まさ子」「うめ子」「あい子」「はる子」であった。李貴粉は、十二歳と幼く「商売(慰安婦)」はまだ無理だということで、掃除、洗濯など雑役の手伝いに回され、一四歳になれば商売させるということだった。その料亭には、兵隊や民間人が多く来ていた。~(中略)~李貴粉が満一六歳になった一九四三年の秋頃、部長一家は日本に引き揚げることになり、その時、憲兵隊に「慰安所から逃げ出した朝鮮ピーがいる」と申告をされてしまった。「特攻隊」の部隊から伍長が私を引き取りに来た。李貴粉は無条件でその伍長について行くより仕方がなかった。連行されたところは、高雄郊外の山のなかの中学を改造した慰安所で、航空隊(特攻隊)専用の慰安所だった。
(※2007.4.10追加)1992.8 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社 蔚山(ウルサン)に一家で引っ越して、二ヵ月した時の事です。私は三年生の一一歳で、時期は一〇月か一一月じゃなかったかと思います。日曜日に、家から遠くない所で、女の子三人で「♪かあちゃん、この子をどうするか、捨てて置いてっかわいそうー」って歌いながら、縄跳びをしていたんです。その頃は縄跳びが流行っていました。そうしたら、日本人一人と、その手下の朝鮮人一人が近づいて来ました。洋服を着てゲートルを巻いていました。朝鮮人の方が「君のお父さんから、用事があるので娘を連れて来るようにと言われた」と話しかけてきたのです。~(中略)~連れて行かれたのは、瓦屋根の朝鮮式の建物で、その家の表札には「趙ミョンギル下宿屋」とありました。家の裏にまわると、そこには鍵のかかる部屋があって、私を入れて鍵をかけたんです。(P.102)
私はその時一二歳でしたが、男たちからは「人に聞かれたら一四歳と言え」と言われていました。一四歳にならないと「慰安婦」の許可が出ないからです。(P.103)
(※2007.4.6追加)1993.7 写真記録 破られた沈黙 ーアジアの従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 蔚山に一家で引っ越しして2ヵ月した時のことです。私は3年生の11歳で、時期は10月か11月じゃなかったかと思います。日曜日に、家から遠くないところで女の子3人で縄跳びをしていたのです。「♪かあちゃん、この子をどうするか、捨てて置いてかわいそうー」って歌いながらです。
そうしていたら、日本人1人とその手下の朝鮮人1人が近づいて来ました。朝鮮人の方が「君のお父さんから、用事があるので娘を連れて来るように言われた」と私に話しかけてきたのです。だから、お父さんの知っている人だと思ったのです。私が話をしている間に、2人の女の子はいなくなってしまいました。
私はその男たちと蔚山駅まで行き、汽車に乗って兵營まで行ったのです。連れて行かれたのは瓦屋根の朝鮮式の建物で、表札には「趙ミョンギル下宿屋」とありました。私は家の裏にある部屋に鍵をかけて入れられたのです。ここでだまされたのがわかりました。そこには3人の朝鮮人の女の子がいました。(P.108)
(※2007.4.24追加)1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店 私は一九二六年、慶尚北道永川郡で、四人兄弟の中の一人娘として生まれました。上に兄がおり、下に弟が二人いました。(P.144)
一九三七年九月十六日頃のことでした。その日も近所のお姉さんたちとゴム跳びをして遊んでいました。その時、日本人一人とその手先らしい朝鮮人一人が、私たちのそばに近づいてきました。日本人は乗馬ズボンをはき、朝鮮人はパジ・チョゴリ姿でした。「あんたのお父さんがチョさんの家で碁を打ってるんだが、あんたに来るようにいってるよ。」と言いました。~(中略)~チョという人の家に連れて行かれ、私は納戸に押し込められました。(P.145~146)
釜山を夕方五時ごろ発って下関に着くと、朝の九時ごろでした。着くまでご飯も食べさせてくれず、すぐにどこかへ連れて行かれました。何か倉庫のようなところでした。そこにはすでに朝鮮人の女が三十三人いましたが、私たちが入って、みんなで三十八人になりました。~(中略)~そこでは、薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男三人が監視をしていました。(P.147~148)
私がいたところは、はじめは全部で四十人ほどいましたが、慰安所本部だということでした。次の日には七人が他のところに送られるなど、女の人たちが次々と入ってきては、他のところに送られていきました。(P.148~149)
部長の家族は、翌年日本に帰りました。一九四二年、私が十七歳の時でした。私も連れて行ってくれるとばかり思っていましたが、それどころか、五年間月給もくれずにこき使った藤本は、自分の家に朝鮮ピーが一人いると部隊に申告したようでした。~(中略)~トラックに乗って六里ばかり行くと山がありました。そこが高尾特攻隊でした。(P.150)
後になってわかると小さな手帳ぐらいの大きさの券には、部隊長の判が捺されていました。軍人たちはこの券を仲居に渡しました。仲居はエイコ(英子)とマサコ(正子)の二人でしたが、彼女たちは券をまとめて、管理者である板倉に渡しました。板倉と正子は同じ部屋で暮らしていました。板倉の階級は軍曹でした。(P.152~153)
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