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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李順玉(イ・スノク)(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年慶尚北道盈徳(ヨンドク)に生まれる。1937年処女供出の噂を聞き偽装結婚をする。1938年17歳の初夏、工場で働く娘を募集しにきたと言う40歳ぐらいの呉(オ)という男性に騙され、中国関東州の慰安所に入れられる。3年後にシンガポールの慰安所に移動し、1994年に階級の高い軍人に相談して慰安婦生活は終了。病院船の看護婦をしながら日本へ到着し、そこから朝鮮へと戻る。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を騙した呉に連れられ中国の関東まで行く。汽車を降りて慰安所まで車で向かうが、その時の運転手が軍服を着た日本人。


【考察】

慰安所の主人である朝鮮人のおばさんが拳銃を所有し、軍人の帽子をかぶることがあったと記述されています。民間人が拳銃を合法的に持っているとは思えないですし極秘裏に所持していたのでしょうか。それとも、軍人の帽子をかぶっていることから、軍関係者なのでしょうか。ただし、50歳を過ぎたおばさんの軍人がいたとも思えないのですが。

当時の状況に詳しくないので何とも言えないですが、少し疑問です。


【信憑性】

慰安所のおばさんの様子は少し疑問ですが、その他の証言には信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 こんな話をよくしていた頃、四十歳ぐらいの呉(オ)という男性が森田家に来ました。~(中略)~呉は工場で働く娘を募集しに来たとのことです。~(中略)~呉は、日本に絹織物の工場があるが、新しい工場を建てたので働く娘がたくさん必要だ、年をとって仕事がイヤになればいつでも出てくることができると言いました。呉は私に行く気があるかと問いただしました。私はそういう条件ならいってみたいと答えました。~(中略)~一九三八年満十七歳の初夏だったと思います。(P.183)

 日本はきれいなところだと聞いていたのに、着いたところはそうでもなく変だと思いました。その時になって着いた所が日本ではなく中国の関東だと分かりました。そして、その時から私たちの悲惨な生活が始まったのでした。(P.184)

 呉は私たち一行が家に入ると、日本の軍人たちと話をした後、どこかに行ってしまいました。そして家の中が消毒されました。呉がいなくなった後、私たちのそばには全羅道出身の五十歳を過ぎた女性がつくようになりました。(P.185)

 私は借金はありませんでしたが、酒を飲む人たちはおばさんから借金をしていました。憲兵がしょっちゅう慰安所を見回り、主人であるおばさんと話をしていました。おばさんは刀と拳銃を自分の部屋に置いていました。また後には軍人の帽子をかぶってくることもありました。女たちが言うことを聞かないといってはひどく叩き、私も下半身をよく叩かれました。ふとんが汚れていたり軍人を取らないと言い張って、ふとんを外に捨てられてしまうこともありました。(P.186)


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