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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李相玉(イ・サンオク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年(※住民登録では1920年)慶尚北道達城(タルソン)生まれ。暮らしは比較的裕福だった。兄の大反対で学校に行けなくなったため、親にも告げずソウルの伯母の所へ行き4年生になるまで学校に通う。伯母に学費が出せないので家に帰れと迫られた為、伯母の家を出て紹介所(注)で知り合ったおばさんの養女となる。一年後の1936年15歳の時、日本の工場で働くという女たちが紹介所を訪れ自らも志願する。その後、日本人の軍属に連れられパラオ行き慰安所に入れられる。陸軍の兵士に刺されて入院した際、軍医に相談し、以降、病院で働く。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を紹介所から慰安所まで連れて行ったのが日本人の軍属。


【考察】

同女たちをパラオへと引率したのが日本人の軍属で、また、「紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。」とあり、軍が女性を集めていたことを示唆する記述もあります。
しかし、その軍属が、同女たちを慰安所経営者に引き渡す際、「経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました」という記述もあり、どう考えても軍属ではなく、ただの人間ブローカーでしょう。強制連行で軍属が引っ張ってきて慰安所から金を貰うのも不思議ですし(職務としてやっているのだから、軍から給料が出ているはず)、女性毎に貰った金額が異なるのも解せません。女性毎に金額が異なるのは、人間ブローカーが紹介所に払った金額が違うからでしょう。


【信憑性】

同女達を引率したのが軍属であったという証言は信憑性が薄いと言えるでしょう。しかし、その他の部分は信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
いつ頃からか女たちがひっきりなしにやって来るようになりました。一人、二人とやって来ましたが、中には父親に売られて来た娘たちもいました。紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。日本人の軍属は国防色の軍服を身につけ、肩には赤と青の飾りがついていました。赤いかもめの形をした肩章が一つありました。
彼女たちがどこへ行くのかと尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。「私も行こうかな」と言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました。~(中略)~私が一番下で、十五歳(一九三六年)のことでした。春だったと思います。(P.199)
一緒に来た日本人の軍属は、私たちを家の経営者に引き渡しました。経営者は朝鮮人夫婦で、全羅道の方言を使っていました。~(中略)~経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました。私は一年半でしたが、あらかじめもらったお金は一銭もありませんでした。(P.201)
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