忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
69 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ 吉見義明「従軍慰安婦」岩波書店 ◆◆◆


以下には、吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書・1995.4)に記載されているもので、慰安婦となった経緯に関連する日本兵の証言を抽出して記載しています。



内 容 「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという(山口彦三『落日の賦』)。(P.91)
備考
(管理人)


内 容 大阪製麻という軍需会社の経理タイピストだった磯崎隆子は、四四年八月、軍属としてジャワの支店に行くために瑞穂丸に乗った。しかし、アメリカの潜水艦に攻撃されて、乗っていた船が沈んだ。救助された女子軍属約七〇名は、ルソン島にたどりついた。しかし、彼女たちは、現地の部隊からやっかり者扱いされており、一〇月ごろ約三〇名が残留していたとき、副官の命をうけた当番兵から「慰安婦になるなら面倒をみてやる、ほかの者とも相談するように、と副官がいっておられるが、どうか。衣食住の保証付きで、それならもちろん、トラックで運んでもらえるよ」といわれたという(磯崎『生ある限りルソンへ』)。彼女たちはただちに拒否したが、売春婦ではない日本人でも慰安婦になることを要求される場合があったのである。(P.91~92)
備考
(管理人)


内 容 一九四一年四月二一日、台湾第四八師団は福州を占領したが、師団専属の慰安婦がついてこなかったので、師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を指示した。そこで、兵站部は福州憲兵の兵長に協力を求め、市内の有力者に物資を提供して女性たちを集めさせたという(鈴木卓四郎『憲兵下士官』)。(P.113)
備考
(管理人)


内 容 四四年五月二五日の洛陽後略の後、戦車第三師団経理部のある少尉は、後方参謀によばれて「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めてこい」という命令を受けた。そこで、「これは、メチャメチャである」と思ったが、トラックに塩ニ、三俵をつんで洛陽に行き、ニ、三軒まわって十数人の女性を集めた(新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上巻)この将校は、同年夏、衝陽でも慰安婦徴集業務を担当し、中国人女性一五名を、塩と交換に売春業者から譲り受けている。(P.113~114)
備考
(管理人)


内 容 四四年秋、湖北省宝慶に入城し、宝慶憲兵隊長になった山田定憲兵准尉は、第一一六師団の後方参謀から、軍人による強姦事件を防ぐために、慰安婦の徴集を頼まれた。そこで、曹長に命じて、十数名の女性を集め、副官に引き渡した(山田『憲兵日記』)。(P.114)
備考
(管理人)


内 容 四五年六月、独立山砲兵第二連隊は湖北省洪橋付近に集結したが、平原一男第一大隊長(戦後、自衛隊陸将補)は、部下の意見具申を受けて、軍慰安所の開設を命令した。そこで、経理室が六名の中国人慰安婦を集めたが、そのときの条件はつぎのようなものであったという。

 慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。(平原『山砲の○江作戦』)(P.114)

※○=草冠+「止」
備考
(管理人)


内 容 平原大隊長の回想によれば、両市塘に駐留していた前の警備隊長は、治安維持会長に、まず女を差し出すよう要求したという。この話を聞いて、彼は「小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたかもしれない」とのべている(平原『山砲の○江作戦』)。大隊ぐらいまでは、慰安婦徴集をふくめ自力で軍慰安所を経営できるが、それ以下になると力不足で、往々にして強制的徴集をおこなうことがあるということであろうか。軍の末端で往々にして強制がおこなわれる傾向があることを示唆している点が注目される。(P.115)

※○=草冠+「止」
備考
(管理人)


内 容 つぎの例は、同じ独立山砲兵第二連隊のケースである。第二大隊付のある軍医の日記によれば、一九四〇年、湖北省薫市に近い揚子江沿岸のある村で、売春婦ではない地元の女性たちが徴集された。日記には、八月一一日の最初の性病検査のようすが、つぎのように書かれている。

さて、局部の内診になると、ますます恥ずかしがって、なかなか○子〔ズボン〕を脱がない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘も同様でこっちも泣きたくいくらいである。みんなもこんなに恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。(溝部一人編『独山ニ』所収)

 どのような女性が集められたかをよく示す文章である。この軍医は「〔大隊長は〕保長や治安維持会長に諮って現地に於ける慰安婦の徴募を依頼した」、「何ら強制的要請はなく、すべて彼らの自由的意思にまかせた」と回想している(同上)。しかし、軍からの要請は、地元の住民にとっては、ほとんど命令と同じではなかっただろうか。保長や治安維持会長が強制的徴集をし、軍は知らぬふりをして、集められた女性たちをそのまま慰安婦としたとみるべきだろう。(P.116~117)

※○=衣へン+「庫」
備考
(管理人)


内 容 つぎは、鉄道第一三連隊の下士官が、四四年夏に河南省○城の南方で、臨時の特設慰安所をつくったケースである。軍紀が乱れてきたため軍慰安所の開設を命じられたこの下士官は、前線司令部のある○城まで行った。そこで、二五人の中国人慰安婦と賄婦・監督など総数三〇名を預かり、二台の自動車に分乗させ、逃亡されないよう警備兵もつけて、特設慰安所に連れてきた。建物は、村長の屋敷をかりて六棟の家に分け、部屋を仕切って開業した。そこで、軍医の検診に立ち会ったところ、顔立ちはいいが、「驚いたことに……例外なく不具者」であったという。軍の命令であるため、事実上の強制となり、治安維持会が彼女たちを犠牲にしたのである。女性たちの年齢は二〇歳前後であった。初日から大勢の兵士が押し掛け、夜は将校がやってきた。二日目になると、朝一〇時から夜中まででは身体がもたないので、休ませてほしいと女性たちが申し出たほどであったという(森利『モリトシの兵隊物語』)。(P.118)
備考
(管理人)


内 容 第二五軍(マレー作戦を担当)兵站に所属した兵士の証言によれば、一九四二年一月二日、マレー半島の上陸地点シンゴラにいた兵站将校ら三名がタイのバンコク出張を命じられた。そこで彼らは、日本企業の駐在員に頼んで二三名の娼婦を集めてもらい、性病検査に合格したタイ人女性三名を連れて帰るなど、各地で軍慰安所開設を担当したという(林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」)(P.120)
備考
(管理人)


内 容 シンガポールの中国語新聞『昭南日報』(一九四二年三月五日~八日)に、「征求接待婦」(接待婦募集)という広告が載っている。その内容は、各民族の接待婦数百名を募集する、年齢は一七歳から二八歳、報酬は一五〇ドル以上、「暗業」(売春婦などをいう)も可、受付はラッフルズホテル、というものだった(林博史「シンガポールの日本軍慰安所」)。ラッフルズホテルは兵站が管理する将校用ホテルである。(P.121)
備考
(管理人)


内 容  近衛師団通信隊の将校総山孝雄(戦後、日本学士院会員)の回想によれば、二月二七日に軍慰安所が開設されている。『昭南日報』の広告あるいはこれと関わるものであろうか。ともあれ、第二五軍司令部の後方担当が慰安婦を募集すると、それまでイギリス軍を相手にしていた女性が続々応募したという(総山『南海のあけぼの』)。シンガポールでは、占領直後、慰安婦が公然と募集され、最初は売春婦など生活に困った女性たちが応募したのだった。
 しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず「女性の手足を寝台にしばりつけ」てつづけさせたということを兵士から聞いている(同上)。このような強制もあったのである。(P.121~122)
備考
(管理人)


内 容 一九四二年五月、フィリピン、ルソン島のヌエバビスカヤ州アリタオに駐屯していたある中隊では、兵士が強姦未遂事件をおこしたため、バヨンボンの大隊副官の命令で各中隊に軍慰安所を設けることになり、大隊本部付の下津勇中尉は通訳官を連れて走りまわり、各中隊駐屯地の町長と話し合って、女性たちを集めた。彼は、集められた女性たちの面接と身元調査をおこない、若くて健康な女性、五十数名を採用したという(下津『泥棒と黄塵』)(P.122)
備考
(管理人)


内 容 ミンダナオ島のラサン地区コロニーで飛行場の建設をはじめた第一二六野戦飛行場設定隊の主計少尉は、上陸直後の四四年六月、ワンピース用の布をもってダバオの有力者を訪問して慰安婦の斡旋を依頼、一週間後に六名の女性をうけとって、軍慰安所を開設した(高野部隊戦友会『高野部隊ミンダナオ島戦陣記』)。(P.122)
備考
(管理人)


内 容 マレーのクワラビラでは、歩兵第一一連隊のある中隊長が治安維持会の会長代理(華人)を呼び出し、女性を集めるように命じた。このころ、各地で日本軍による中国系住民の虐殺がおきていたので、拒否すると殺されるとおびえた会長代理は、未亡人など一八名を集めて差し出したが、女性たちは会長代理に家に帰りたいと泣いて訴えたという(林「マレー半島の日本軍慰安所」)。(P.123)
備考
(管理人)


内 容 インドネシアのボルネオ(カリマンタン)島タラカンにいた輜重兵第三二連隊第一中隊のある兵士は、四四年に、そこの軍慰安所にいたリナーという慰安婦から、自分たちは水産会社の事務員にするとだまされて、スラウェシ島のメナドからガレラに連れてこられて慰安婦にさせられたと聞いたという(同中隊戦友会八木会編『我らの軍隊生活』)。(P.123~124)
備考
(管理人)


内 容 四四年、戦局悪化のためアンボン島では、日本人慰安婦は後方にさげられ、八月には、地元の女性がいる軍慰安所も閉鎖された。しかし、海軍特別警察隊の将校の回想によれば、軍人の非行がつづくので、第四南遣艦隊司令部(正確には海軍第二五特別根拠地隊司令部か)の先任参謀の指導で、軍慰安所をもう一度設置することになった。慰安婦体験者、売春婦、売春のうわさがある者、志願者を対象にしてリストをつくり、本人に交渉するが、「ある程度の強制はやむをえない」ということになった。治安維持を任務とする特別警察隊が前面にでるのはまずいので協力にとどめ、副官が中心となり、政務隊(民政警察)が集めることになった。その指導にあたった司政官からこの将校が聞いた話によれば、サパロワ島でリストにのった女性を強引に船に乗せたところ、住民がぞくぞくと港に集まって、「娘を返せ!!娘を返せ!!」と叫んだという(禾晴道『海軍特別警察隊』)。集められたのは、ユーラシアン(この場合、白人とインドネシア人の混血)とインドネシア人だった。(P.126)
備考
(管理人)


内 容 海軍第二五特別根拠地隊司令部付の主計将校だった坂部康正の回想によれば、アンボン島で日本人慰安婦を帰したあと、司令部の参謀が四つの慰安所を開設し、約一〇〇名の慰安婦を「現地調達」する案をつくったという。それは「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を出し、「密告を奨励し」、「現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているもの」を収容し、そのなかから美人で性病にかかっていない者を選んで、慰安婦にするというものだった(海軍経理学校補修学生第一〇期文集刊行委員会編『滄溟』)。彼は「クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」とのべている。(P.126~127)
備考
(管理人)



PR
忍者ブログ | [PR]