忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
31  30  29  79  77  76  75  74  73  72  71 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ 姜日出(カン・イルチュル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年10月26日、慶尚北道尚州郡で12人兄弟の末っ子として生まれる。子ども時代、いとこに連れられて学校に通っていたが、父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えなかった。1943年16歳の時、当時「処女供出」「報国隊」の名目で若い女性を募集する動きが激しくなっており、家に警察がやってきて軍靴の紐を編む工場で働くと騙され、中国の牡丹江にて慰安婦を強いられる。腸チフスにかかり、1945年初夏、他にうつることを恐れた軍人に焼き殺されそうになるが、朝鮮人たち救われ脱走する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家にやってきて工場で働くと騙したのが警察。


【考察】

同女の証言の疑問点等は以下の通りです。

<家は裕福?>
・・・「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には、「父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えず」とあるので、それほど裕福であったとは思えませんが、「戦争と性」では、「家は裕福」と言っています。


<入れられた慰安所の場所>
・・・同女が入れられた慰安所の場所は以下の通り

○「ナヌムの家歴史館ハンドブック」・・・牡丹江の慰安所
○「戦争と性」・・・吉林省長春の慰安所(※長春は満州時代の首都、新京のこと)
○「asahi.com」・・・奉天(瀋陽)、新京(長春)などの慰安所
○「ナヌムの家HP」・・・牡丹江の慰安所

何故か、入れられた慰安所の場所がまちまちです。なお、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には以下の通り記載されており、奉天と長春は牡丹江に向かう際に経由した地としか読めません。
結局、奉天、長春、牡丹江の全ての慰安所にいたということでしょうか??

「その後(※連行された後)、多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性たちとともに汽車や車、トラックで中国の奉天(現在の瀋陽)から新京(現在の長春)、牡丹江へと移動させられた。途中で降ろされる女性もいれば、新たに加わる女性もいた。」


<日本軍人が連行?>

・・・「YAHOO!! KOREA」の記事には、以下の通り記載されています。

「小学校で家に帰って来たら日本軍人と警察 2人がトラックをひいて来て強制で積載するに乗せて連れて行った」

(※「北海道新聞」でも軍人と警察が来たことになっています。)
一方、「ナヌムの家HP」では、以下の証言しています。

「学校をやめて 2年頃家で働いてから引かれて行った」
「巡使ふたつが来ました」
「日本人なのか朝鮮の人なのか分からないです」

つまり、連行時は、学校をやめていたので、小学校から帰ってきた時に連行されたというのはおかしいですし、また、やって来たのは、日本人か朝鮮人か分からない巡査二人であって、「日本軍人」ではありません。
意図的に証言を変更しているのでしょう。


<3年間慰安婦?>
・・・「YAHOO!! KOREA」の記事によると、「日本軍慰安婦で3年を送った」と証言していますが、これを「ナヌムの家歴史館ハンドブック」、及び、「ナヌムの家HP」の内容と照らし合わせると。

 ①1943年秋、連行
 ②1944年年初、慰安所に到着
 ③1945年初夏脱走

つまり、慰安婦生活は最大でも「1年8ヶ月」。また、慰安所までの移動時間も入れてもせいぜい「2年足らず」です。


【信憑性】

同女の証言には、「処女供出」の話が出てきたり、入れられた慰安所が証言毎に違っていたりと非常に疑わしい内容です。

細かい所で証言を変更しているのは確かですが、現段階では信憑性を完全に否定できるほどのものは集められていないと考えます。

よって、現時点では「疑わしい」という判断で留めたいと思います。


なお、あくまで推測に過ぎませんが、なんらかの事情(家が貧乏で金が必要だった等)で売春婦になって、奉天、長春、牡丹江と転々とし、最後にいた牡丹江だけが慰安所で、奉天、長春は売春宿だったのではないでしょうか。そして、売春宿も含めた期間が3年。
そう考えれば、入れられた慰安所の場所が証言ごとに異なっていたり、慰安婦を3年間したという発言が出てきたことも辻褄が合うのではないかと思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1928年10月26日、慶尚北道尚州郡安東面で12人兄弟の末っ子として生まれる。そのとき、すでに上の兄弟6人は亡くなっていた。子ども時代、いとこに連れられて学校に通っていたが、父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えず、14歳ごろからは家にいた
 連行されたのは1943年16歳のときだった。当時「処女供出」「報国隊」の名目で若い女性を募集する動きが激しくなっており、ハルモニの家にも警察が刀をさげてやって来た。そのとき、家にはいとことハルモニしかおらず、とても拒絶できる状況ではなかった。しかも、軍靴の紐を編む工場で働くと騙されたのだ。
 その後、多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性たちとともに汽車や車、トラックで中国の奉天(現在の瀋陽)から新京(現在の長春)牡丹江へと移動させられた。途中で降ろされる女性もいれば、新たに加わる女性もいた。牡丹江の慰安所は煉瓦造りの兵舎のような所だった。そこで30余名の女性たちとともに「慰安婦」生活」を強いられた。
 到着後まもなく全員車に乗せられ、軍人病院に連れていかれて身体検査を受けた。工場で働かされるものと思っていたハルモニは、何がなんだかわからなかった。性病検査は耐えがたいものだったが、その後も週に一回ぐらい定期的に検診を受けさせられた。
 慰安所では「オカダ」と呼ばれた。朝鮮人女性をはじめ日本の女性、台湾の女性もいた。ひとつの部屋にいれられ、呼ばれると出て行った。ハルモニは当初年配の将校の相手をさせられた。まだ生理も始っておらず、想像を絶する苦痛を受けたうえ、あふれる血を見て叫んだハルモニを見て、彼は胸倉をつかんで押さえつけながら殴ったり蹴ったりした。そのとき頭を殴られたのが原因で膿が出るなど長い間苦しめられ、いまもそのときの傷跡が残っている。
 その後はひとつの部屋をあてがわれ、1日に7、8名の兵士の相手をさせられた。しかし、暴力は止むことなく続いた。慰安所に来た翌年の春に腸チフスにかかり、高熱が続き、食事も摂れなくなってしまった。1945年初夏の頃、軍人に連れられて車に乗せられて山のふもとに行くと、すでに薪を積み上げ、火を燃やしていた。しかしそのとき、朝鮮人たちが日本の軍人と乱闘のすえ、ハルモニを背負って逃げた。
 逃亡後、ある朝鮮人の家に預けられ、そこでしばらく養生した後、ある朝鮮人男性と結婚した。(P.135~136)
2007.3.13 北海道新聞 ***** ****
従軍慰安婦だった韓国人の姜日出(カンイルチュル)さんが、自宅から日本の官憲に連行される様子を帯広市内で本紙に語った。「カーキ色の服を着た軍人と、黒っぽい服を着て腰にサーベルを付けた巡査に両腕をつかまれ、トラックに乗せられた」十六歳だった。そのまま慰安所に行かされた。いま七十九歳、道内各地で証言を続ける。釧路の集会では、安倍首相が「官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はない」などと「狭義の強制」を否定したことに、憤りの涙を流したそうだ▼「元慰安婦の証言だけに頼るのは乱暴」と主張する人もいる。首相もかつて、関連文書がないなどとして、軍の直接関与に疑問を呈した。だが軍は敗戦時に大量の文書を廃棄した。見つけるのは至難だ▼日本の巡査に「きれいな服を着てお金をたくさん稼げるところに行こう」と誘われて応じた。十三歳だった女性の証言だ。「強制連行」の印象はわずかだが和らぐ▼だが慰安所から逃げようとしたら軍用犬で脅され、最初の行為を拒むと軍人に刀で刺された。すぐ夜ごとレイプされるようになる。こうした被害を前に、強制の狭義、広義を論議しても何も生まれまい▼結婚できず、故郷からも逃れ、生涯を孤独に生きた人もいる。慰安の名とは逆に、慰めも安らぎも薄かったろう。そんなお年寄りの心の傷に、今また塩を塗り込んでどうするのか。
2007.6.15 YAHOO! KOREA 「姜日出お婆さん『慰安婦関連、日嘘は世界1位』※リンク先は韓国語 ***** ****
【忠州=ニューシース】日本議員などがアメリカワシントンポスト紙に出した広告で波紋が広がっている中に慰安婦出身姜日の出お婆さんは 15日 "日本人たちのオブは仕事作り上げる才は世界 1など"と言いながら怒りを耐えることができなかった.

川お婆さんはこの日忠北忠州ズングサンウェゴで持った '日本軍慰安婦巡回証言' 行事で問題の広告に対する見解を問う記者たちの質問にこのように怒った.

川お婆さんは "小学校で家に帰って来たら日本軍人と警察 2人がトラックをひいて来て強制で積載するに乗せて連れて行った"と '慰安婦動員に強圧がなかった'と言う日本人たちの主張は捏造されたことなのを確かにした.

また '将校や将軍より収入が多かった'は新聞広告主張に対しても "日本軍は慰安婦たちに両替することができるかさぶたを与えたが監禁状態だから実際にこれを両替することができる道はなかった"と "特に日本が敗戦しながらこのかさぶたは皆紙切れになってしまった"と言った.

川お婆さんは引き続き "10代の幼い年令に一日平均 7人の日本軍たちに性暴行にあったし, とても痛くてトイレも行くことができなかった"と目頭を赤くしたりした.

全校生の参加した中にこの学校講堂で進行された巡回証言で川お婆さんは "ナラウル失う苦痛はあまりにも大きくて, 国民が経験するさげすみも想像することができない"と "我が国が再び国を失う事がないように青少年たちが熱心に努力しなければならない"と頼んだ.

慶北常住で生まれた川お婆さんは十六年に軍靴紐作る工場へ行かなければならないという理由で日本軍によって強制に引かれて行って中国モックダンガング(※牡丹江(管理人))から日本軍慰安婦で 3年を送った.

解放以後には中国吉林で看護婦生活をしたし 2001年慰安婦被害者に登録して国籍を回復して京畿道光州分け蟻集で過ごしている.

一方民族史官庫学生サークル 'しらぬまに少しずつ'が主観する慰安婦巡回証言は川お婆さんと李屋ではお婆さんから日製慰安婦の実際を聞く行事で, ズングサンウェゴを始まりに全国 7個高校で進行される.

(※上記は機械翻訳)
2007.8.17 asahi.com「旧日本軍問題の解決を求める証言集会」 ***** ****
 旧日本軍の慰安婦だった女性による講演会「消せない記憶―旧日本軍問題の解決を求める証言集会―」が9月2日午後2時から、高知市本町4丁目の県民文化ホール(オレンジ)で開かれる。全国数カ所で同時期に行う証言集会の一つで、「全国同時証言集会高知実行委員会SALAD」の主催。

 証言する被害者女性の姜日出(カン・イルチュル)さんは朝鮮半島出身。16歳で中国へ連れて行かれ、奉天(瀋陽)、新京(長春)などの「慰安所」で従軍慰安婦として過ごし、72歳まで韓国に帰国できなかった。現在は、元慰安婦が共同生活する韓国の「ナヌムの家」で暮らす。
2007.8 戦争と性
韓国で「慰安婦」と向きあう
高柳美知子・岩本正光 かもがわ出版
 一六歳の時、日本軍によって中国・吉林省長春の慰安所に連行された。六一年たっても、いまだ日本政府が自分たちに謝罪してくれないことに怒りをおぼえる。(P.50)

 私は一二人兄弟の末娘として生まれ、家は裕福でとてもかわいがられた。その末娘をなんで両親が「慰安婦」として出そうとするでしょうか。「慰安婦」はお金を稼ぐために行ったのではない。いま食べられないから、お金で償ってくれと言っているのではない。(P.51)
2007.8.28現在 ナヌムの家HP
※リンク先は韓国語
***** ****
(以下は機械翻訳(管理人))

1943年秋に動員
されて, 1944年年始に中国モックダンガング
(※)慰安所に到着して以後 1945年解放されるこの間に脱出するまで慰安婦で生活した.

(※)牡丹江(管理人)

-下の内容は初インタビューを土台として以後何回のインタビューを通じて確認した内容を補ったのだ.

* * *

お婆さんは 1928年 10月 26日慶尚北道尚州郡化東面蟻酸で生まれた.
お母さんが子供を皆十ふたつを生んだが日の出はその中末っ子だ. 日の出が生まれた時もう上の五つ兄弟が死んで七が残った. 日の出が末っ子だからご両親はもうたくさん老けたし, 農業をした.
"幼い頃に甥たちとすべて一緒に大きくなりました. 学校は和同小学校を私たちのクンゾカと私と学校てがらで, 下に人は学校も行かせるです. とても子供入り多くて. クンゾカしてからは年差が一歳差か? (甥が私を) 弟(妹)のように連れてデングギョッジ.
だから学校に行きかけてから--- 働きに行っている途中ご飯も年だ酒庫, また他の子供達は働きに行けば生える飯をたいていてで枝. だから学校もたくさん下がって, 日本語の中と朝鮮言えばトドリョ迎えました. その時が何だから? 熱六歳か? "
故 : それではです 16歳(1943年), 頃頃その時です? (学校をやめて 2年頃家で働いてから引かれて行った.)
川 : なんかそうだ. そう働きなさいといえば働きに行きます. どんなに行かないんですか. うちのママが連れて働いたが.
故 : それでは主に何か働きましたか? 畑である?
川 : 畑である. 草取りをしてまた感生える時感タガンダでこと守ってください. 秋だから出て感日少ない朝夕方ちょっと肌寒いです.
故 : 秋です? はい. 中国にいらっしゃるようになる時その時の話をちょっと詳しくしてください.
川 : 中国に行く時にも, しきりに抜くことから隠れてデングギョッです. しきりにそうまた抜かないか日が暮れてまた来るようになればまた抜いてそうしている途中私が行ったんです
故 : 何を抜くとグロドンがです?
川 : こんなに選んでいて日本奴が枝行くんだよ.
故 : お婆さん, ところでその時女達を連れて行くというそんなうわさが広がりましたか?
川 : アアいくら選んで. 私の顔が売れました.
故 : どこで出ましたか?
川 : 河東で.
故 : 河東どこで? 学校でそんな話が出ましたか?
川 : いいえ. 警察署で.
故 : 警察署で? 誰がその名前を知らせてくれました?
川 : 弛張がアルキョズォッジ. --- 私が. 誰に言えないです. 私の中国でも言わない. 自分のお寺でも本当私の涙が中に降りました. 子にも話せないです. 誰に言葉ハゴッですか? 及びます, 及びます. 私がそのように掛けがね良くて利口なことがもう馬鹿だなったの, 私の一生と言うこと, このようになったの.
故 : あの時この名前を何だとそうだったです? 従軍慰安婦とそうだったです? それとも慰安婦だとそうだったです? 呼ぶ名前が何だとそうだったです?
川 : そうだったが--- 何 '娘供出', '保国隊' 抜いてそうだったです.
故 : それでその時行くようになった時はどう行くようになりました?
川 : 直接巡使ふたつが来ました.
故 : 巡使たちは朝鮮人です? 日本人です?
川 : その時は何日本語お上手だから, 日本人なのか朝鮮の人なのか分からないです.
故 : そのまま日本語にしましたか? それでははそのまま警察服着て?
川 : はいその時は. 刀だけ見ても恐ろしくてぶるぶると震えるのに. 刀がちょうどこの万ずつ大きいことを満ちて来たが.
故 : それではいつ来ましたか? 昼え?
川 : その時午後円価--- その時また雨がツルツル来てそうだったです. ちょうど驚かしていて.
故 : だから何らの予告もなしに急に来たことです?
川 : 常住へ行かなければなりませんよ. うちのママもいなかったですその時は. 乱また避けて来たから仕事ないかしました.
故 ; 何かこのような紙に行かなければならないそうなこのごろ言葉にすれば令状なのに, そうなことが来ましたか?
川 : はい, はい. だから私がぶるぶると震えて. ママやお父さんもいなくて, 私たちが学校のようにデングギドン甥が一緒にいたの. そうその子を与えながらハルメ全甘さにこれを与えなさいと言いますね.
故 : お婆さんは全然抵抗することはなくてそのまま付いて行きましたか?
川 : 付いて行かなくてはならない, どんなに付いて行かないですか? スンサンデ. 巡使だけ見ても私たちはこんなに中それでもしきりに逃げますよ. 巡使だけ見れば子供達が外に出なくます.
(後にお婆さんは刑事たちが甥を押しのけて, お婆さん腕を紐で縛って連れて行ったと言った.)
故 : 常住に行っては警察署に入りましたか?
川 : 入って行った歌謡, 汽車乗って行きました, その次には.
故 : 警察署に入ってこんなに調査してそうしたですか?
川 : 調査もしないです. もうここですべてしたんです. 私をどこ他の人を送るオチォンダ真書, 誰もそのように考えもしなくて, 家に大人たちも仕事オブゴだから思ったんです. 誰そんなことができますか? 他の人送るから.

常住までは警察たちして車に乗って行ってその日夕方に汽車に乗った. キムチョンでまた違う女達を乗せた.
"代六つが上って来たが, 朝鮮末ができないようにします. 殴ります, 朝鮮末をすれば. すべて日本語にしなければなりません. 足でちょうど満ちます. 便所へ行っても一つ一つ枝, ふたつが出る事ができません."
また他の所で女達を乗せて皆九人になった.
彼らの降りた所は中国沈陽だった.
"中国にあの時奉天(当時には沈陽を奉天と言った)でまた下りました. 下ってまたどこ連れて行きますよ. ことなの行っていて, ちょっとある途中どこに行った上に, 今は長春と言いますね. 長春にまた行ってありました "
"中間に日本女達が上って来ますよ. その女が (何年前に) 敷布団吉林で会ったが去年に死にました. そうだったが私にそうです. "長く長く言わないでね." 出て見て. また "どこ行っている途中解放いい." こんなに言いなさいと. "日本人掘り下げれば限定がない."で."

~(以下略)~


PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
Mail
URL
Comment
Pass Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
忍者ブログ | [PR]