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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 柴岡浩元・榎本正代・井上源吉・鈴木卓四郎・総山孝雄・大岡昇平・野本金一・河東三郎 ◆◆◆


※以下は、「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮社・1999.6)(P.382~387)に記載されているものです


【柴岡浩元 元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)】

内 容  一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者に殴られていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。
 「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代りに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」
出典等 「憲友」八一号(一九九七)の柴岡浩稿と柴岡談


<備 考(管理人)>

女性を騙して集めてきた業者に憲兵が接客を禁じた話です。


【榎本正代 済南駐屯の第五十九師団)】

内 容  一九四一年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本女性二百人がやってきた・・・・・・(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが・・・・・・皇軍相手の売春婦にさせられた。"目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ″が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。
出典等 本多勝一他「天皇の軍隊」二九三-九四ページおよび榎本談


<備 考(管理人)>

大陸慰問団と称して集められた日本人女性200人が慰安婦にさせられたという話。

にわかには信じ難い証言です。国防婦人会は、慰安婦にするつもりで200名を送り出したのか、それとも、現地の日本軍が勝手に慰安婦にしたのか。
これが真実だとすると、政府に謝罪と賠償を求めて訴訟を起こす日本人女性がいてもおかしくないのですが・・・。しかも、本多勝一氏がらみとなると、根拠はないですが個人的には信憑性を疑いたくなります。


【井上源吉 憲兵曹長(中支憲兵隊)】

内 容  一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百-五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで、一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいですが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」
出典等 「憲友」八一号の井上源吉稿と井上談


<備 考(管理人)>

安某という人の経営する慰安所では、前借金が返済されたら女性たちは解放され、給与もちゃんと払われていたようです。
また、一方で、女性を集める際に軍命と称したり部隊名をかたったりする悪徳業者もいたようです。


【鈴木卓四郎 憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)】

内 容  一九四〇年の夏の南寧占領後に<陸軍慰安所北江郷>と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は、<田舎の小学校の先生を思わせる青年>で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。
出典等 鈴木卓四郎「憲兵下士官」(新人物往来社、一九七四)九一-九三ページ


<備 考(管理人)>

女の子達に売春を強いることになった理由は何だったのでしょうか。


【総山孝雄 少尉(近衛師団)】

内 容 <シンガポールでの体験>
 一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。
出典等 総山孝雄「南海のあけぼの」(叢文社、一九八三)九一-九三ページ


<備 考(管理人)>

<吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書1995.4>には、上記内容の後の話として、以下の内容が記載されています。

「しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず『女性の手足を寝台にしばりつけ』てつづけさせたということを兵士から聞いている。このような強制もあったのである。」(P.121~122)


【大岡昇平】

内 容  彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。
 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。
出典等 大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫、一九六七)三七四ページ


<備 考(管理人)>

従軍看護婦が慰安婦を強制されたという話。
しかし、婦長は将校の愛人状態だったのでしょうが、なぜ、そんなことを提案したのでしょうか。しかも、本人の意思を無視した強制とは・・・。


【野本金一 憲兵軍曹】

内 容  一九四三年ビルマのアキャブ憲兵分隊の分駐所に勤務していたとき、慰安所のない配属部隊が村長を通じてビルマ人女性の慰安所を募集しようと計画したことがあったが、半強制的になっては治安対策上まずいと判断して、連隊本部へ申し入れ中止させた。
出典等


<備 考(管理人)>

慰安婦を村長に集めさせようとしたが、半強制になってはまずいので中止したという話。


【河東三郎 (海軍軍属設営隊員)】

内 容  一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
出典等 河東三郎「ある軍属の物語」(日本図書センター、一九九二)六九ページ


<備 考(管理人)>

無試験で看護婦になれると騙されて慰安婦にさせられた女性がいたという話。


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